対談を終えたいまも、語るべきことを語り尽くしたという思いは全くありません。キリスト教をめぐって若松さんとより本格的な対話を積み重ねていくための出発点にようやく立てたというのが今の正直な実感です。
今回の対談では、語るべきことを充分にうまく語ることができなかったということを言いたいのではありません。むしろ、満足のいく仕方で語ることができたからこそ、更に語るべき領域が広大に広がっているという事実が、あらためてありありと見えてきたという意味です。
トマスによると、神は「最高度に認識されうるもの」です。人間が神についていくら認識しても、神を認識し尽くすということはありえず、認識すべきものが常に無限に残されているという意味です。人間が神についていくら多くの言葉を語っても、神を語り尽くすということはありえず、語るべきことがらが常に無限に残されているのです。語るべきことがら、自らの能力で語ることができることがらを淡々と語りつづけることが、「言葉」を超えた「神秘」との決定的な出会いへとトマスを準備し続けていたのだと言うことができるかもしれません。
使徒パウロは、「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです」と「コリントの信徒への手紙 一」の中で述べています(第一五章第三節)。彼が人々に語った言葉は、パウロがゼロから作り出したものではなく、彼自身、他の人から受け継いだものだという意味です。先人から「言葉」を受け継ぎつつ後人へと受け渡していくダイナミックな連鎖のなかに、パウロは「言葉を語る」という自らの営みを位置づけなおしているのです。
それでは、パウロが受け継ぎ受け渡したものとは何でしょうか。パウロは続けて次のように述べています。「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、 ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」(第三一五節)と。一言で言えば、キリストの死と復活という「神秘」をパウロはイエスの弟子たちから受け継ぎ、それを更に他の人々に受け渡そうとしているのです。
-
『赤毛のアン論』松本侑子・著
ただいまこちらの本をプレゼントしております。奮ってご応募ください。
応募期間 2024/11/20~2024/11/28 賞品 『赤毛のアン論』松本侑子・著 5名様 ※プレゼントの応募には、本の話メールマガジンの登録が必要です。