作品のテーマに到るもう一つの入り口は、稚内の丘で見学した「氷雪の門」と「九人の乙女」の悲劇を追悼する碑である。ストーリーの設計図も描けていない時点で、この作品を『氷雪の殺人』と命名した動機は、ほぼその時の直感によっている。
稚内市内にはロシア人の姿が多かった。港には赤錆びたロシアの貨物船が停泊し、ラーメン屋はロシア人の客で賑わっていた。よく晴れた日には宗谷岬からサハリンが望めるそうだ。文字どおりの一衣帯水、外国と向き合っていることを実感する。東京や軽井沢の山の中で面白おかしく暮らしているのとはまるで違う、緊張感がある。ここでは景気問題もさることながら、国際問題、外交といったことが日常の話題であり、武器密輸、漁船の拿捕(だほ)、盗品の海外持ち出しなどが、ごくありふれた会話の中で語られている。作中でラーメン屋のおやじが「トカレフの入ったカニ」と喋っているのは、実際、この耳で聞いた話であって、必ずしも冗談とは思えなかった。
東京や大阪など中央で生活する市民には、稚内や利尻島辺りは観光地としての認識しかない。じつはそこは日本が外国と向き合う第一線なのだ。いまでこそ友好関係にあって、市民が気楽に行き交うけれど、ほんの十数年を遡った冷戦時代には、ほとんど敵対関係にあるといっていい最前線であった。その辺りの感覚のギャップをひしひしと感じ、そのことが無意識のうちに、作品の一つの方向性に繋がったと思う。取材はやはり、単なるお気楽な観光旅行などではなかったのである。
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