彼は新しく注いだサンペレグリノを飲みながら、冗談とも本気ともつかぬことを言う。まだ頬をぴりつかせ、辛そうな顔をしている。安楽死という言葉のイメージや、改元のタイミングから、彼が死んでしまうとしても、それはしばらく先のことだと思っていた。しかしいつも準備周到な彼のことだから、もう明日にでも死のうとしているのかも知れない。
「ねえ、急に明日、死んだりしないよね」
「明日は朝からフジテレビだよ」
私と彼はグーグルカレンダーを共有していて、お互いの予定が確認できるようになっている。後で、彼のスケジュールがいつまで埋まっているのかを確認しておこう。少なくともその日までは、彼に生きる意志があるということだ。
二人分のチョコレートアイスがすっかり溶けた頃、コーヒーとマカロンが運ばれてきた。時計を見ると、22時を回っている。明日、朝の6時過ぎにはテレビ局から迎えの車が来てしまうはずだから、そろそろ彼を帰してあげたほうがいいのだろう。
マカロンだけ持ち帰りにしたいと伝えて、クレジットカードを店員に渡す。「僕が払うよ」と言ってくれたが、彼はさっきUBERの決済をしてくれている。二人の間では、高額だろうが少額だろうが、会計はとにかく順番にするというのがルールだった。あれほどルールの大好きな平成くんらしからぬ行動だ。そのことに彼もすぐに気付いたようで「UBER、呼んでおこうか」と言ってiPhoneの操作を始めようとする。
「ちょっとそこまで歩かない?」
私の提案に平成くんも乗ってくれた。レストランを出ると、あたりはすっかり暗闇に包まれていた。六本木のど真ん中にいるにもかかわらず、古くからの民家が視界をじゃまして、高層ビルはほとんど見えない。人通りの少ない暗い路地を、光のほうを目指して歩き出す。
「ねえ、手をつないでくれない?」
そうだった。彼は暗闇が怖いのだ。せっかくだとばかりに、私の左手の指が全て彼の右手の指に絡みつくようにして、身体もぎゅっと寄せる。
「ねえ平成くん、今の港区の気温は?」
「グーグルホームじゃないから、そこまではわからないよ」
そう言いながら両利きの彼は、左手でiPhoneをポケットから取り出して、顔認証でロックを解除しようとする。私がふざけて彼の身体を揺らしたものだから、中々iPhoneは使えるようにならない。
「別に平成くんに聞いているんだから、グーグルを使わなくてもいいよ。ねえ平成くん、ここから家までの距離は?」
「車だと飯倉片町経由で10分くらいかな。歩くと30分くらいだよね」
「ねえ平成くん、今日は何時に寝る予定?」
「明日は朝6時に起きないといけないから、睡眠に7時間確保することを考えると、あと1時間くらいで寝たいかな」
「ねえ平成くん、じゃあセックスできないね」
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