「時間があっても、僕がそういうこと好きじゃないの、知ってるでしょ」
そんなことを話しているうちに、東京ミッドタウンが目の前に見えてきた。外苑東通りはいつものように、何十台もの車と、浮かれた大人たちが行き交っている。LEDの青白いイルミネーションが、街を辛気臭い色に染めていた。
「ねえ平成くん、死ぬなんて言わないで」
彼は何も答えない。私たちは手をつないだまま、人混みの中を六本木通り方面に向かって歩く。グーグルホームに反応してもらえなかった時と同じように、もう一度同じことを彼に向かって話した。すると彼は、少しだけ顔をうつむけて、小さく「ごめんね」とつぶやく。私は何だかいたたまれなくなって、タクシーを捕まえて、そこに平成くんだけを乗せた。
「ねえ平成くん、私、ちょっと買い物してから帰るね」
私が車に乗り込まないことに少し驚いたようだったが、無視して後部ドアを閉めてしまう。もちろんこの時間に買いたい物があるわけではない。彼が乗り込んだ車が六本木交差点を越えたのを見届けてから、バッグからGalaxy Noteを取り出した。
*
地下駐車場にタクシーをつけて、カードキーをセンサーに押し当てる。出勤時間に当たったせいなのか、エレベーターがなかなか降りてこない。
時計を見ると7時半を過ぎている。彼はとっくに家を出ている時間だ。エレベーターには誰も乗っていなかったので、39階のボタンを押したあと、ドアが開くまで一人で蹲(うずくま)っていた。誰かの香水なのか、知らない名前の香りがエレベーターの中に充満している。昨日から起こったことを振り返ろうと思っていたら、あっという間に39階に着いてしまった。ホテルのように仰々しく絵や彫刻が飾られたフロント階とは違うシンプルな内廊下を抜けて自室を目指す。鍵を開けると、いつものように彼の靴が雑然と並べられていた。「とくダネ!」の出演なら、ジョンロブのダービーシューズでも履いていったのだろう。
今日は空気が澄んでいるせいか、リビングの窓からは房総半島のほうまで見渡せた。3LDK、140m²で、家賃は値引きしてもらって130万円。二人で折半しても安いとは言えない金額だったが、彼は一昨年から住み始めたこの部屋が気に入っているようだった。
東京湾に面した部屋からは、芝浦のビル群、レインボーブリッジの先に続くお台場や有明、さらにその先には海の森やゲートブリッジが見渡せる。景色に占める海の面積が広いせいで、夜景はそれほど明るいわけではない。彼はせっかくタワーマンションに住むならもっと東京の街が見渡せる西側がいいと言い張っていたが、住み始めてからそのような不平は一切聞かなくなった。
夜中に窓際で体育座りをして、何もせずに夜景を眺めている平成くんの姿を何度か見たことがある。常に忙しなく本を読んだり、誰かと連絡を取り合っている彼にも、そのように何もせず惚(ほう)ける瞬間があるのだと安心していたのだが、今になって思えば死の可能性について思いを巡らせていたのかも知れない。
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