河鍋暁斎――の画号で知られた父は交誼が広く、弟子の数だけでも軽く二百人を超す。その上、若い頃に入門していた狩野家の相弟子やら習い事の狂言の仲間、更には親しい戯作者たちを合わせれば、二十二歳のとよにもよく分からぬ付き合いは数多ある。
しかしそこは、商人の如才なさ。清兵衛は葬儀の間も座の温まる暇もなく駆け回り、五百名を超える弔問客をさばいても疲れた顔ひとつ見せない。その辣腕には、暁斎の親友であり、古い弟子でもあった真野八十吉が、
「普段は金の使い方もよく知らんぼんくらと思っていたが、さすがは鹿島家のご当代だなあ」
と、感嘆の息をついたほどだ。
「ありがとうございます、清兵衛さま。油はまだありますので、どうぞお気になさらないでください」
若い頃には師匠から「画鬼」の仇名をつけられた暁斎は筆が早く、興が乗れば夜中でも赤々と行燈を灯して絵を描き続けた。
五歳の春から父のもとで稽古を始めたとよにとって、画室の行燈の油注ぎはなによりも大切な仕事であった。どんな時も行燈の具合を気にかけ、油を切らしたことなぞ一度もなかった。
灯火が身をよじるように揺れ、またも虫の音そっくりの音を立てる。見る見る干上がる油皿が、とよには自分の胸裡そのもののように感じられた。
この東京がまだ江戸と呼ばれていた昔に生きた画人・葛飾北斎は、五十八歳で西国を遍歴して百二十畳の大達磨を描き、八十歳を越えてもなお旺盛な画力を失わなかった。それに比べれば、暁斎の享年はたった五十九。北斎はもちろん、六十四歳で没した師匠の歌川国芳にも及ばない。
生来勝気で、往古の画人すべてから貪欲に学びつくそうとしていた暁斎は、自らの短命をさぞ悔しがっているだろう。今年の正月、勤勉な暁斎にしては珍しく筆を執らぬ日が続いたあの時、どうして無理にでも医師にかからせなかったのか。
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