まだ千代田のお城に大樹公(将軍)がいた頃ならばいざ知らず、世が明治と改まってからこの方、医術は格段に進歩した。近隣の漢方医では救いがたかったとしても、暁斎が親しくしていた東京医学校の医師・ベルツであれば、何らかの手を施してくれたはず。そうすればきっと暁斎はいまも酒の茶碗を片手に、思う存分筆を振るっていただろうに。
傾けた油注ぎの徳利がとぷんと鳴るのに合わせて、喉の奥に苦いものがこみ上げる。それを懸命に飲み下して、土間の隅に徳利を片付けたとき、目の前の障子戸ががたぴしと音を立てて開いた。
「姐さん、星が流れたよ」
とっぷりと暮れた夜空を振り返りながら飛び込んできたのは、五年前、十一歳でこの家の住み込み弟子となった真野八十五郎であった。
「馬鹿かおめえは。まずは、ただいま戻りましたとの挨拶だろうが」
その後に続いて土間に踏み入った八十吉が、息子の頭を軽く小突く。清兵衛に軽く会釈を送ってから、とよに向き直った。
「寺の始末は、すべてつけてきたぜ。おとよ坊も大変だったなあ」
と、大きな息をついて、三和土に腰を下ろした。
「いえ、おじさんこそ。お世話になりっぱなしでごめんなさい」
「気にするんじゃねえよ。あいつとはお互い二十歳そこそこの頃からの長い付き合いだったからさ」
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