小さい頃、初めて買ってもらった絵本が、『ちいさなうさこちゃん』でした。外から帰るなり母が待ち構えていて、「はい、〇〇子の」と、手渡してくれました。私はびっくりしました。それまで家の中にある絵本は兄の本だったので、「自分用」に本がもらえるなんて考えたことがなかったのです。
母もなんだか嬉しそうでした。何か「良い」ものを、この子に与えられる、という表情で誇らしそうでした。そして私に、「おおきな にわの まんなかに……」と読んでくれました。
読み終わって、母は「どうだった?」と聞いたんだと思います。私はなんと答えたのだったか。たぶん「……わかんない」とでも言ったのでしょう。母の幾分がっかりした表情を憶(おぼ)えています。
私は、その時うまく言えなかったけど「うさこちゃん」を好ましい、と思いました。言葉にはできないけど気に入って、何度も撫(な)でるように眺めました。
『ちいさなうさこちゃん』は、一面に花咲く庭の中にたつ家の絵から始まります。その家の窓が、始めは開いているのに、最後のぺージで閉じられていることの不思議さ、さみしさ。すっくりと立つうさこちゃんの、きゅっと閉じた口。お祝いにきた牛の大きな黒い瞳。
特に好きだったのは「さやえんどう と なし」の絵です。画面に大きく描かれた「さやえんどう と なし」は、おいしそうで、でもそれだけではなく、何か理屈を超えて、嬉しい色と形のシンボルとして、小さい頃の私に響いていたように思います。お話の進行から立ち止まって、1枚1枚の絵を、ずっと心の深い部分で見ていた気がします。
気がつけばブルーナの絵本は、家の中だけではなく、子供が行く、いろいろな場所に置かれていました。図書館はもとより、小児科の待合室や銀行のロビーにもありました。母親の用事がすむ間、ソファで足をぶらぶらさせながら、知っている子に会ったように「うさこちゃん」のいろいろなシリーズを手に取りました。
『うさこちゃんとうみ』も、そんなふうに家の外で出会った本です。子供の頃は持っていなかったけど、ずっと心に残っていて、大人になってから買いました。
『うさこちゃんとうみ』は、とても美しい本ですが、その海辺の風景は、私には、どこか異様な感じがします。空は濃い藍色で、晴天の空というより、夜空のようです。黄色いお日様は満月のようで、静けさに満ちた海岸を照らしています。あんまり静かな光景なので、子供の頃の私は、自分の知っている海水浴の風景(うるさくて賑やかで人がいっぱい)との違いに混乱したほどです。
ブルーナにしたら、特に意図したわけではなく、使うと決めた4色(ブルーナカラー)を風景にあてはめたら、こうなったという事かもしれません。でも、この異様な緊張感のある美しさが、夏の日の1日を詩的に閉じ込めている気がします。
あの日、うさこちゃんが、ひとりで水泳パンツをはいたこと。さまざまな色や形の貝を拾ったこと。父さんと、ぱしゃぱしゃ水をはねかしたこと。帰るとき「もっと もっと いましょうよ!」と騒いだうさこちゃんが、荷車のなかで、コトンと眠ってしまったこと。
大人になって読み返すと、幸福感とともに、何か胸がキュウと締め付けられるような気持ちになります。もう終わってしまった時間なんだ、と感じるからでしょうか。
以前、ブルーナの原画展を見に行ったとき、「うさこちゃん」の初版の(本書にも詳しく載っている)縦長の頃の原画が展示されていました。そこに描かれたうさこちゃんは、まさに「赤ちゃん」という感じで、生まれてきた我が子の存在を、若いブルーナが、驚きをもって絵にしていっているように思いました。そして、そうやって改めて『ちいさなうさこちゃん』や『うさこちゃんとうみ』など初期のシリーズを見てみると、目の前に小さな子がいる画家の視線を、はっきりと感じます。「うさこちゃん」て、こんなにリアルで生々しいくらいの姿で描かれていたんだと、今更ながらに気付かされました。
10年ほど前のことです。絵本専門誌の「MOE」に、自分の持っている『ちいさなうさこちゃん』を撮影のため、お貸ししたことがありました。その本は、小さい頃に買ってもらった、あの本そのものではなく、大人になってから古本屋で求めたものでした。子どもの頃持っていたものよりは、少し新しい本でしたが、懐かしい書体や装丁は、あの頃と同じものです。自分の本当の『ちいさなうさこちゃん』は、実家に置いてきたままなので、かわりにその本を手元に置いていました。見返しのページには、赤鉛筆で落書きがしてあって、その覚束(おぼつか)ない線は、この本の最初の持ち主を想像させて、見るたびに微笑んでしまう佇まいでした。
本の返却のやり取りの電話で、MOEの編集者の方が「今度ブルーナさんのところへインタビューをしに行くので、よかったらこの本にサインをもらってきてあげましょうか?」と、思いがけないお話をされました。
えっ、そんなこといいのかな、嬉しいけど、 ほんとかな……と、なんだかフワフワしながら、「良いのでしょうか、お願いしても」と返事をすると、落書きつきの『ちいさなうさこちゃん』は、そのままオランダに旅立っていきました。
しばらくして忘れた頃、小包が届きました。中には2冊の絵本が入っていて、1冊は『ちいさなうさこちゃん』です。そっと本を開くと「あれ?」、サインは入っていません。もう1冊の本は『vogel piet』というブルーナの絵本で、開くとそちらに、「To komako Dick Bruna」と、特徴的な丸みを帯びた、美しい文字が書かれていました。
ほどなくMOEの方から電話がかかってきて、こんなふうに話してくれました。
「ブルーナさんは、サインのこと快く引き受けてくださったんだけど、この本にして下さいって渡したら、本を開いて、じっと見て“ぼくは、ここにサインはできない。なぜならここには、小さい頃の大切な時間が入っているから”とおっしゃって、“代わりに、この新しい本にサインをしましょう”と、『vogel piet』に書いてくださったんです」
この話をきいて私は、まず「しまった!」と思いました。この本の大切な時間は、私じゃない子のものだったのに。嘘をついてしまったようで……。そして、その濃密な(過ぎ去った)子ども時代の気配がつまった絵本に、突然参加するように、自身の名前を書き込むのは良しとしない、と思われたのであろう、ブルーナさんの気持ち。
なんだか二重に申し訳なく思いました。
そういう後ろめたさがあって、せっかくいただいた絵本とサインなのに、長い間、正面から見られない感じだったのですが、今回ひさしぶりに開いてみました。
『vogel piet』は尾羽(おばね)がなくて悲しんでいる小鳥が、友達の小鳥たちに、それぞれの羽を1枚ずつわけてもらって、すてきな尾羽を持つようになるお話です。
表紙には、泣いている小鳥の絵が描かれていて、めくると左下に尾羽を1枚もらった小鳥が描かれています。その上の余白に、黒いペンでサインが書かれていました。
矯(た)めつ眇(すが)めつ眺めて、やっぱりすごい線だと思います。なんのてらいもなく、あっさり書かれた文字ですが、まっすぐにブルーナの絵につながるような美しい佇まいです。美しさと共に親しみがあって、そして凜(りん)としていました。
「この本にサインをして下さい」という人に、断るというのは大変なことと思います。たとえ思う所があったとしても、「いいですよ」と、サインする方が簡単です。でも、ブルーナさんは、そうはされなかった。
この森本俊司さんの綿密な評伝を読むと、そんなブルーナさんの人柄が、少しわかるような気がしました。
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