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【冒頭立ち読み】『剣樹抄』(冲方丁 著)#1

ジャンル : #歴史・時代小説

剣樹抄

冲方丁

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『剣樹抄』(冲方丁 著)

深川の鬼河童

 

 四歳の“りょうすけ”は、父の腕の中で眠っていた。

 浅草寺のお堂の縁の下である。他にも無宿人が大勢並んで横たわっている。みな穴だらけの衣服と筵だけで夜の寒さに耐え、りょうすけだけが父の温もりに守られていた。

 幸福だった。極貧でいつも腹を空かせていたが、他の生活を知らない子にとってそれは不幸ではなかった。父は無宿人だが、良い仕事を得たときは長屋に住めることもある。

 母は知らない。りょうすけが生まれた日に死んだ。しかし寂しくはなかった。父がいつでもそばにいてくれたからだ。子を捨てる親は多い。親子ともども飢えて死ぬというところまで追い詰められ、寺や大名屋敷の前に幼い子を置き去りにする。だが父は決してりょうすけを捨てなかった。

「お前はな、おとうの神様仏様なんだよ。もしお前がそうじゃないなら、この世に神様も仏様も現れたためしなんてないんだ」

 父はしばしば幼い息子にそう言って聞かせた。りょうすけには理解できなかったが、父の優しさが伝わり、飯を腹一杯食えたときのように満ち足りるのが常だった。

 ふと、安らかな眠りに、何かが侵入した。

 いくつもの足音。ぼそぼそとした話し声。頭上で板の軋む音が立て続けに聞こえ、りょうすけは目を覚ました。お堂の縁側に何人かが腰掛けたらしいとすぐにわかった。

 明るさを感じ、朝かと思った。夜明けとともに坊さんたちがお堂の掃除を始め、無宿人を追い出そうとする者もいる。

 りょうすけは真っ暗闇で身を起こそうとし、父に押さえ込まれ、手で口を覆われた。

 父が緊迫した面持ちでかぶりを振ってみせた。動くな、喋るな。父のいわんとすることがわかり、身を強ばらせた。

 暗闇の中、うっすら父の顔が見えていた。朝ではない。提灯の光が縁の下に入り込んでいた。

「……無宿人がいるぜ」

 若い男の声がした。視界の隅で、綺麗な着物の裾が見えた。旗本奴だ。深夜に屋敷を抜け出し、江戸市中を徘徊する者たち。

 りょうすけは震えた。父も他の無宿人たちも凝然とし、恐怖の臭いを発散させている。

 江戸の無宿人にとって飢えた三つの生き物ほど怖いものはない。野犬と鼠と旗本奴だ。野犬や鼠に噛まれれば多くの場合、病をうつされる。無宿人の手当てをしてくれる医師などいない。旗本奴につかまれば、遊び半分で嬲られる。殺されても役所は気にしない。訴えても、お咎めを受けるのは旗本奴どもではなく、ただそこにいただけの無宿人の方だ。

「……斬ろうぜ」

 やがて、その言葉がはっきり聞こえた。

 恐怖でりょうすけは涙を浮かべた。父がりょうすけを抱えたまま這おうとした。逃げねばならないと悟ったのだ。他の無宿人たちも音を立てぬよう、そろそろと身を起こした。

 まさにそのとき、きらきらしたものが飛び込んできた。無宿人には縁のない、綺麗な着物と艶やかな肌が提灯の光で輝いていた。

 無宿人たちが悲鳴を上げて這った。父も這ったが、横倒れになった。りょうすけを抱いたまま、後方へ引きずられた。父の足を、飛び込んできた旗本奴がつかんでいた。

 父がりょうすけを引き剥がし、押しやった。りょうすけは慌てて父につかまろうとした。父が息子を追いやろうとしたのはそれが初めてだった。

「三吉さん、りょうすけを、どうか……!」

 別の太い腕がりょうすけを後ろから抱いた。父に手が届かなくなった。暗闇の中で父が安心したように微笑んだ気がした。

 父が、一瞬で消えた。縁の下から引きずり出されたのだ。

「おとう―!」

 叫ぼうとしたが、またもや口を押さえられた。太い腕に抱えられ、埃と蜘蛛の巣まみれになりながら、縁の下の角へ運ばれた。

「お前の親父どのは奴どもに捕まった。俺たちゃ逃げなきゃなんねえんだ」

 三吉が震える声で言った。縁の下の角を曲がり、さらに這った。提灯の光が見えなくなった。代わりに父の叫び声が聞こえた。

「なぜでございますか!」

 かつて、りょうすけが聞いたことのない声だ。悲嘆に満ちると同時に、聞く者を狼狽えさせるような気迫をみなぎらせていた。

「わたくしは、このような身に落ちぶれたとしても、命を惜しく思うことは万人と同じでございます! なのに、なぜこのようなことをするのですか!」

 沈黙があった。父の叫びが功を奏したと信じたかった。野犬や鼠も、大声を出せば逃げるときがある。旗本奴もそうだと思った。

 だが、三吉が縁の下から出て、茂みに向かって走ったとき、悲鳴が響き渡った。激しい痛みと恐怖に襲われて上げる、父の声だった。

「おとう……! おとう……!」

 りょうすけは三吉の手に口を押さえられながら父を呼んだ。三吉が寺の境内から出て、でこぼこした道を走った。父の声が遠ざかり、聞こえなくなった。

 やがて三吉が息を荒げて立ち止まった。りょうすけを抱え、その口を押さえたままだ。

 浅草川のそばだった。三吉が、へなへなと座り込み、ぶるぶる震えながら泣いた。怖かったんだ、とりょうすけは納得した。三吉の手が口から離れたが、りょうすけは叫ばなかった。三吉の体に手を回してしがみついた。父がどうなったか今すぐ確かめたかったが怖くて出来なかった。三吉もそうだと理解した。二人とも、朝が来るまで震えながら泣いた。

 黎明が訪れてのち、りょうすけと三吉は、どちらともなく立ち、浅草寺へおずおず歩んだ。父がいたはずの場所は、一面の血の海だった。

 りょうすけは真っ赤な血溜まりを見つめた。誰もいなかった。父は逃げたと思いたかった。だが無宿人の子として、そんな甘い期待が叶うことはないと悟っていた。

 赤く染まった小石を拾った。血は乾き、石に染みていた。

 それは父の一部だった。供養してやれたのは、その小石一つだった。

 

 以来、りょうすけは三吉に養われた。

 三吉はもとは何かの職人で、木、葦草、竹の加工を教えてくれ、それでりょうすけも不出来ながら一緒に働いたりもした。

 りょうすけが六つになった頃から、町の口利きなどに頼んで、長屋住まいができることが多くなった。

「運が巡ってきたんだな。おめえの親父どののおかげだぞ。おめえさんをどうか養ってくれって、親父どのが言ってるんだ」

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