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【冒頭立ち読み】『剣樹抄』(冲方丁 著)#1

【冒頭立ち読み】『剣樹抄』(冲方丁 著)#1

冲方 丁


ジャンル : #歴史・時代小説

『剣樹抄』(冲方丁 著)

 父の神仏が、いつの間にか三吉にとってのそれになっていた。江戸の子どもは七つになる前に、三人に二人は死ぬ。りょうすけは頑健なたちだった。養われたことをりょうすけが感謝する以上に、三吉の方がその成長を喜んでくれた。長屋の人々も同じだった。

 無宿人が多い長屋だった。単に住み処がないのではなく、人別帳に載っていないということだ。江戸は無宿人には厳しい。咎められれば大人は市中追放、子どもは寺か勧進小屋に放り込まれて大人になるまで出られない。だがひとまずの住まいがあれば、滅多に咎められることはない。代わりに家賃を多く取られても、文句を言える立場ではなかった。

 自分がいなければ、その分、楽ができるのに、なぜ一緒にいてくれるのか。りょうすけは、あるときそう三吉に尋ねた。それまでは、いつ捨てられるかわからず怖くて尋ねられなかった。

「おめえの親父どのは立派だった。旗本奴どもに道理を説いて死んだんだ。ただ嬲り殺されたんじゃねえぞ。これから斬られるってときに、言えるだけ言った。ああいうのが本当の男伊達なんだ。おめえも、親父どのみたいに立派な男になんなくちゃいけねえぞ」

 これが三吉の返答だった。質問への答えにはなっていない。だがなんとなく納得できた。三吉にとって、りょうすけもその父も、信じるに値する神仏のようなものなのだ。

「だからな、こいつだけは、どんなに苦しくても売ったりしちまっちゃいけねえ」

 そう言って、古びた懐刀を指さした。狭い住まいに竹で作った神棚めいたものを置き、懐刀と父の血が染みた小石を並べていた。

 懐刀は父がくれたものだ。由来はわからない。飯を食うたび、りょうすけは刀を布切れで磨いて父に感謝した。三吉がそうしろと言ったからだ。確かに父に話しかけている気になることもあった。刃文も曇って見えなくなった、かろうじて錆びていない古刀だが、りょうすけと三吉にとっての宝だった。小石の方は磨かず、たまに埃を払った。

 十歳を越えると、りょうすけも働けるようになり、たまに餅を食えるくらいには生活が楽になった。父に守られている。そう信じた。

 だが、ある年の正月の朝方、りょうすけが長屋の井戸で鍋を洗っていると、仕事に出かけたはずの三吉がすっ飛んで戻り、叫んだ。

「逃げろ! 火事だ!」

 りょうすけだけでなく、井戸端にいた者たちが一斉に、それぞれの住まいに駆け込んだ。なけなしの家財を抱えて逃げるためである。

「おめえは、親父どのを忘れるな!」

 三吉が僅かな家財を筵にくるんで背負いながらわめいた。おとうの形見である懐刀と小石のことだ。りょうすけはその二つを懐に入れ、自分で編んだ草鞋を履いた。

 江戸に火事はつきものだ。年に何度となく火に襲われることもある。その年の正月も、元日には四谷竹町、二日には麹町が焼け、四日には赤坂、五日には駿河台の吉祥寺の辺り、九日にはまた麹町で火が起こっている。

 だが十八日のそれは、まさに大火災だった。風が強く、からからに空気が乾いていた。あらゆる消火の努力も功を奏さず、竜巻のようなつむじ風が火を膨れさせ、巨大な炎の波が西から東へ、あるいは南へと猛烈な速度で移動していった。

 濛々たる煙が漂う道を、りょうすけは三吉と手を握り合って走った。大混雑だった。はぐれたら一生逢えないかもしれない。相手が死んだかどうかもわからないままになる。

 庶民が家財をつんだ手押し車があちこちで道を塞ぎ、混雑がいっそうひどくなった。火の粉が雨のように降り注ぐや、そうした荷物の山が真っ先に燃えた。運んでいた男女が必死に叩いて火を消そうとするが、消えぬどころか一緒に燃え上がる始末だった。

 あちこちで人が火だるまになった。かつて父が上げたような悲鳴が、周囲で何百と聞こえた。りょうすけと三吉は必死に混雑を縫って走った。僅かな荷物しかないことが助けになった。どこをどう走ったかもわからない。そしてある地点で、立錐の余地もないほどの人の山にぶつかってしまった。

「御門が……! 御門が閉じやがったぁ!」

 恨みに満ちた声が上がった。御城の門が閉ざされたのだ。りょうすけも三吉も呆然となった。なぜ門を閉じたかわからない。それで火が防げるわけがないのに。考えても無駄だった。このままでは焼け死ぬのは確実だった。

「こっちだ、りょうすけ!」

 三吉が手を引っ張った。りょうすけは必死についていった。

 急に抱え上げられ、宙に躍り出る感覚があった。

 りょうすけを抱いて三吉が川へ飛び込んだのだ。水飛沫が顔を打った。正月である。恐ろしく冷たかった。だが逃げ場はそこしかない。大勢が雪崩れるように水へ入った。どこの川かもわからない。場所の目印などなかった。どこもかしこも火と煙の分厚い壁に覆われ、豪雨のように火の粉が降り注いでいる。

 かろうじて川底に足がつく場所で、りょうすけは三吉とひたすら抱き合った。人々が群れ、氷のように冷たい水の中で体温を保とうとした。だが大勢の老若男女が寒さで力尽き、顔を水面に沈めて動かなくなった。

 ごうごう轟く炎の音のせいで会話も満足にできなかった。三吉の体に回した腕が寒さと冷たさで痺れ、体に感覚がなくなった。二人とも何度となく意識が薄れては覚醒するということを繰り返した。それもだんだん間隔が開き、やがてりょうすけは、もはや温かくも冷たくもない無感覚の暗闇に落ち込んだ。

 意識が戻ったとき、三吉の肩越しに、青と灰色のまだらの空が見えた。体中がかじかみ、息をするだけで胸に痛みを覚えた。

 周囲を見ると真っ白い人たちがいた。凍死した人々だ。逆に地上は、人か何かわからない真っ黒い塊に覆い尽くされている。

 人を焼く火は、川の水を温めてはくれなかった。いや、それでも川縁はやや温かかったのだろう。りょうすけは、三吉が自分を川縁の方に向けてくれていたことを知った。おかげで、ぎりぎり生き延びることができた。

 三吉を見ると、目を閉じてうなだれている。かぶった筵ごと、頭から耳にかけて焼けただれていた。火の粉と水の冷たさの両方から守ってくれたのだとわかった。

 りょうすけは何とか動いた。死んだ人々が川に流されていくおかげで、密集状態から抜け出せた。おのれの手足がどこにあるかもわからないほど凍えている。それでも動かぬ三吉とともに、近くの荷揚場に辿り着いていた。

 石段に肘で這い上った。三吉を見ると顔が水面に沈んでいる。痺れた両腕で顔を上げてやった。その顔が真っ白いことに気づいた。

「三吉のおやじさん……」

 か細い声で呼んだが返答はない。幾つも死体が流れていった。白く透き通るような顔になった者もいれば黒焦げの者もいた。

 三吉を引き上げようとしたが手を添えているだけで限界だった。火災で温まった石段に横たわり、手足の力が戻るのを待った。だが吹きつけてくる冷風が体温を奪い、なけなしの力を振り絞ることすら許してくれなかった。

 ふいに流れてきた黒焦げの死体がぶつかり、三吉が、りょうすけの腕から離れた。

「おやじさん……!」

 りょうすけが叫んだ。目を覚まして。こっちに手を伸ばして。だが、そうしてくれたとしても、その手を握る力があったかどうか。

 声もなく泣いた。父が死んだときのように、ただ震えながら泣くしかなかった。三吉が遠ざかり、途方もない数の遺体とともに消えた。

 りょうすけは自分もここで死ぬのだと思いながら石の上に腹ばいになって目を閉じた。三吉を追って川に入る気力すらなかった。そのまま死が訪れるはずだった。

 突然、手足の指に猛烈なかゆみを伴う痺れを感じた。たまらなかった。とてもじっとしていられず、身をよじり、悶えた。どんどん手足の感覚が戻ってきた。腹や背にもかゆみを感じた。心臓は必死に鼓動を保っていた。

 死が遠ざかっていった。

 生きねばならなかった。

 石段を這い上り、道の上に膝をついた。

 焼けた町の残骸がどこまでも広がっている。だが全てが焼けたわけではなかった。くすぶる煙としつこく舞い飛ぶ火の粉の向こうに、延焼を免れた建物が並んでいる様子をかすかに見ることができた。

 立ち上がって懐を探った。懐刀と小石が一つ。父の形見だけはなくさなかった。三吉の形見が何もないのが寂しかった。

 一度だけ振り返って三吉が流された川を見つめた。それから、生き残った者たちがいる場所を目指し、とぼとぼ焼け野原を歩いた。

#2へつづく

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