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【冒頭立ち読み】『剣樹抄』(冲方丁 著)#2

【冒頭立ち読み】『剣樹抄』(冲方丁 著)#2

冲方 丁


ジャンル : #歴史・時代小説

『剣樹抄』(冲方丁 著)

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 復興の音がさんざめいている。

 材木を運び、加工し、組み立てる音だ。それに、運び手や、職人たちのかけ声が混じる。

 明暦三年の夏、大火災に襲われた江戸は、驚異的な速度で復活しようとしていた。

 ただの再建ではない。幕閣の入念な計画に従い、都市の拡張と、将来の防災が考慮され、江戸を新生すべく全域で建て替えが行われているのだ。

 御城の北側にある小石川で、その新生復興の音を、一人の男が、心地よく聞いていた。ただ聞くだけでなく、自ら立てていた。

 大名世子としての着衣を小姓に預け、職人に混じり、尻をまくった姿で、材木を運び、釘を打ち、かんなをかける。墨付けなどの大工の技を熱心に見学し、見様見真似でやってみる。小姓たちも側近も、止めても聞かないとわかっているので黙っている。それどころか、お前たちも一緒にやれ、と男に言われかねなかった。

 男の名は、水戸徳川光國。三十歳。

 筋骨逞しく、肌は夏の日差しの下でも白く、美男であった。若い頃は遊蕩狼藉で知られたが、今では妻帯し、少なくとも夜中に屋敷を抜け出さない程度には落ち着いている。

 生来、好奇心の塊だった。父の頼房から上屋敷建設の様子を見るよう言われたのを良いことに、職人の真似事を楽しんでいた。

 再建は、このときの光國にとって何よりの情熱の対象だった。

 建物だけではない。火災で焼失した学問の書籍は数万巻にのぼった。喪失の衝撃で、火災を生き延びたのに、病んで死んだ学者もいる。光國はすでに、学書の収集と学問の再起再興のための学問所を、中屋敷に設置する許しを、父から得ていた。

 また、かつて自分が通った色町の復興も助けた。焼け出された遊女たちがいまだ行き場所がないという話を聞き、父に話したところ、

「老中たちが吉原の移転先に悩んでいてな」

 と聞かされ、

「では水戸家が拝領した千束一帯の土地を提供しては? 遊女たちは親兄弟を助けるために売られたのです。大変な孝行者ではないですか。それを焼け出されたままにするというのは、御政道にも、どんな教えにも反します」

 大まじめに進言したところ、そのように復興されることになったのだった。

 その光國が、職人の巧みな技を真似つつ、

(屋敷普請で、上野に出る口実を得たな)

 つい昔のように遊びのことを考えたところへ、側近が駆け寄ってきた。

「御屋形様がお呼びです」

 水戸藩主・頼房、つまり父のことだ。水戸徳川家の家祖として屋形号を頂戴していた。

「水を浴びる。少し待て」

 光國は井戸へゆき、衆人環視も気に留めず水を浴び、汗を流した。素晴らしく気分が良かった。一時、火災のせいで空気と水が悪くなり、光國も妻も病に伏した時期があった。母や奥の者たちなど今でも咳が出るし、父も持病の腫れ物がひどくなりがちで頻繁に湯治に出るようになった。

 だが今、少なくとも光國は壮健そのものだ。すっきりした気分で見上げた青空が妙に広く感じられる。御城の天守閣がぽっかり消えたからだろう。大火災で焼失したのだが、再建の予定はなかった。今、江戸で戦が起こることはないのだから、天守閣再建よりも市中の道路、上水、建物の復興に予算を回すべきだという進言があったのだという。

(幕閣にも優れた判断をする者がいる)

 光國はふてぶてしくも、そう考えていた。

 泰平の世には、戦国の世とは異なる発想が求められる。幕閣では長らく文治派と武功派が対立していたが、このところ戦備より庶民の生活を優先する政策が目立ってきている。

(江戸が変わるな)

 漠然とした予感を抱きつつ支度を調え、馬に乗ると、一家の仮の住まいである駒込の中屋敷へ文字通り馳せ参じた。

 

「一つ、お務めを任せたい」

 父の頼房が言った。この父は何かと茶室に光國を呼ぶ。かつて父からだしぬけに縁談のことを聞かされ、婚儀に反発する光國と父とで大喧嘩をしたのも茶室でだった。騒ぎになったとき、あらかじめ人払いしているのだから、紛糾すれば父は茶室の外にある刀を引っつかんで抜きかねない。

 そういう父である。光國はもはや達観の境地で受け入れ、ゆるゆる茶を喫し、尋ねた。

「いかなる務めでしょう」

「今年の正月から、狼藉する者どもについて流言が飛び交うことしきりだ」

 光國はうなずいた。

 明暦三年正月は、火事につぐ火事の月だった。元日、二日、四日、五日、九日、十八日、十九日に二回と八度も火が起こり、江戸の大半を焼き尽くした。特に十八日は、四百町が焼け、焼死者は五万とも十万ともいわれた。後年、振袖火事と呼ばれる未曾有の猛火となったのである。

 折しも由井正雪が江戸焼き討ちを計画したのが六年前だった。別木床左衛門が、崇源院様の二十七回忌に増上寺に放火し、幕府老中を討ち取らんと企てたのが五年前である。

 元日に火が起こってのち、反幕浪人が江戸を焼こうとしていると、まことしやかな噂が広まり、大火を経て夏を迎えた今もそれが消えず、町奉行を苛立たせていた。

「その流言が、どうしましたか?」

「詳細は、これから来る客人に会って聞け」

 端的もいいところである。光國は呆れた。

「せめて誰が来るか教えて下さい」

「中山勘解由。三千石の旗本だ。父親は先手組弓頭だった」

 先手組は、戦で先陣を切るお役目を担う。武功派の親を持つ、若手の旗本だろうと光國は想像した。そして、浪人の流説とくれば、どんなお務めか、これで推測できた。

「委細お任せ頂ける、と?」

 指示がないなら好きにやるぞと言ってやった。

 父が、淡々とした様子でうなずいた。嫡子がどこまでできるか試そうというのだ。光國はこれから自分が何をすべきなのかもわからぬまま、ぐっと肚に気を込めて客人を待った。

 ほどなくして到着を知らされ、光國が玄関先に出ると、柔和な様子の若者が立っていた。

「御曹司様がお出迎えとは、恐縮です。手前は、中山勘解由と申します」

 微笑むと細い目がますます細くなって猫が目を閉じたような顔になる。見ている方が幸せな気分になる、平和そのものの面相だった。今年、二十五歳。十三歳で父が没して家督を継ぎ、今は徒頭だという。れっきとした当主であり妻子持ちだ。連れ歩く家臣の数も、世子に過ぎない光國より圧倒的に多いが、物腰はいたって控えめだった。

「子龍様とお呼びしてもよろしいですか?」

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