手術をしたあと、あとの必要からしばらくの間、尿をビニール袋に貯めているもので、ガラガラにはその袋を積んである。
「この袋が恥ずかしい」
なぜかこの一行が、もっとも痛切に身にこたえた。いたく共感した。まこと、この袋が恥ずかしい。尿が自分を抜け出して、透明な袋でプリプリとふるえている。これは「存在の不条理」というものではなかろうか。万事穏やかに生きてきたのに、このトシにして、恥じらいもなく濃い尿を露出しているのである。
「濃いとなぜ恥ずかしくて、袋に一杯だとなぜ恥ずかしいのか、入院中も退院後もずっとそのことを考えているのだが、いまだに結論は出ない。この問題の根は深いようだ」
「永遠の問題」というほかない。オロオロ入院でも「永遠の問題」にいき着くところがこの人のスゴイところだ。
実をいうと、ふつうの人、病気の人のほかに、この世には「類(たぐ)いのない人」というのがいるのである。その人はふつうの人と寸分ちがわないようだが、しかし、ふつうの人ではないだろう。たとえばショージクンは四十二日間入院しながら、いざ退院となると、足腰が立たないなんてことにならなかった。ちゃんとふだんどおり歩いてベッドをあとにした。毎日きちんと一時間ずつ足を鍛えていたからである。そのことはチラッと言及されるだけで、あえて述べない。オロオロの顚末はことこまかに語られるが、ひとりの孤独な修行者については、つつしみ深く口を閉ざしている。わかる人にわかればいいからだ。
またたとえばショージクンは、病気がつくり出す特性をよくこころえている。病気は人間のちがいをなくするのだ。社会的な地位、年収の力、地位の生み出す栄光と尊厳──病気が一切をチャラにして、ヨレヨレパジャマの、おしっこ剝き出し、いつもガラガラといっしょの、サエないおじさんに変えてしまう。どんなに挽回を図っても、よけいに滑稽になるだけでヨレヨレパジャマ族から脱することはできない。ショージクンがどんなに精密に、そんな病気の特性を推しはかっているか、恐ろしいほどのものなのだ。病気がもたらす平均化、画一化の問題を、この人はつきつめて考え、自作に生かしてきた。気が遠くなるほど長大な連載をしても、ショージクンほど素材に困らない人はいないだろう。なにしろ病気の人は無限といってよく、それにそったヨレヨレパジャマ化は風化することがないからである。
ショージクンが手術で切り取られたのは、「レバ刺し一人前強」あったという。病院食もこまかく描いてある。「院内御法度(ごはっと)品」として、隠匿物資の図解リストもある。私は三日間の試供品入院につづく本入院にそなえ、一つ一つチェックしてメモにとる。
これほどうれしい贈り物はない。病気の人という窮境に際し、「それどころじゃない人」のように、毎日苦虫を嚙んでいなければならないというものでもないのである。ありあわせの世界にいて、ありあわせの世界を受身で感じていると、いつまでも不機嫌だろうが、自分で下手なりに自分の感じた世界をこしらえていけば、状況はそれなりにしのぎやすくなる気がする。それにはやはり練習がいる。なんといっても一番頼りになるオロオロ先生がここにいた。類いのない人に感謝!
(池内紀氏は二〇一九年八月三〇日に逝去されました)
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