先に立って歩いていた月岡の片手に不意に何か柔らかなものが触れてきて、振り返るとすぐ背後まで来ていた元館長の娘と目が合い、そのとたん少女の顔に、さんさんと降りそそいでいるこの陽春の艶麗な陽射しそのもののような笑みがぱっと浮かんだ。彼女が月岡の手におずおずと自分の手を差し伸べてきていたのだった。月岡もにっこりして少女の手をそっと握り返し、二人はそのまま手をつないで歩いていった。最初は少しばかりはにかんでいたが、少女はすぐうちとけて、アメリカの友だちと別れるのはとっても悲しかった、でも日本にはずっと憧れていたから来られてとっても嬉しいわ、テレビでずっと見ていたアニメの『めぞん一刻』みたいな家に住めるかなと楽しみにしてたの、ところが東京でパパが借りたのはアメリカふうの普通のコンドミニアムでしょ、ちょっとがっかりしちゃって……などと、元気よく喋り出した。
種々雑多な厄介事、不運、災難、病気に怪我、過誤に愚行、いろいろあって、楽しいことばかりではないけれど――と、月岡は少女のお喋りにうんうん、へええ、そりゃあそうだ、などと適当に相槌を打ちつつ、頭の隅でぼんやりと考えていた。それでもやはり人生は……何だろう、何と続けたらいいのだろう、と月岡はいっとき迷い、それから、霧にけぶるような迷いの奥から《面白い》という平凡きわまる言葉が浮かび上がってきて、迷いの思念の焦点がそれにぴたりと合い、視界が一挙に澄明に晴れ渡った。人生はやっぱり《面白い》。要するに、そういうことだ。幸運不運、こもごも見舞われるがそれでも差し引き勘定すれば、最終的な収支決算でマイナスよりもプラスが少々上回る――そんなけちな話をしているんじゃないぞ。そもそもマイナスがプラスで償われるわけでも、プラスがマイナスで損なわれるわけでもなく、収支の帳尻なんぞいつまで経っても決して合わないままだ。ぜんたい、何がプラスで何がマイナスか、誰にわかる? わからないからこそ面白い。そうではないか。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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