何はともあれ、生きていて良かった、生きてきて良かった――束の間のはかない幻想かもしれないが、そんな馬鹿々々しいほどありきたりな感慨がしみじみと湧いてくるような、うらうらとしたのどかな日だった。そうした日は年にほんの何日かしか訪れないことを月岡はよく知っていた。
T字路になっている突き当たりを右に折れ、郵便局の前を過ぎると道がゆるやかに蛇行している。最後にここを通った数年前にはたしかなかったはずの真新しい小洒落たビルが、ところどころに建っているのが目につくが、風景じたいはここ二十年来、基本的にまったく変わっていない。しばらく行くと、石畳を敷き詰めた小道へと折れる曲がり角のところまで来て、するとそこに何人かの人々が立って何やら相談している気配がある。そのなかの一人、小柄で小太りの初老の女性が月岡の顔をすぐに認めて近寄ってきた。
あらまあ、月岡さん、すっかり顔色が良くなられて、と嬉しそうに言う。
おお……その節はまことにお世話になりました、と、多少きまりが悪くないでもないが、照れ臭がっていてもはじまらないととっさに腹を括り、月岡は平静を装って力の籠もった声で挨拶を返した。人の好さそうな笑みを浮かべているその女性は、以前月岡が何週間か入院していたことがある、伊豆の円子クリニックという医院の看護師長だった。「世話になった」というのは社交辞令でもお世辞でもなく文字通りの事実で、月岡は退院してからもずっと彼女に対して深い感謝の念を抱きつづけている。
今日はお誘いくださってどうも有難うございます、と彼女は言った。本当に楽しみにして参りましたの。円子院長は今日は残念ながら、精神医学会の理事会と重なってしまいまして……。月岡さんにくれぐれもよろしくと申しつかっております。実はですね、わたくし、ちょっと勝手なことをしちゃいまして……。せっかくの機会なので、外泊日がうまく重なって東京に出てこられる患者さんたちを誘って、一緒に連れて来ちゃったんですよ。そう言いながら彼女は手を挙げて同行の数人の男女の面々を示した。ご迷惑じゃなかったでしょうか。皆さんも大喜びで……。
いやいや、迷惑なんてとんでもない、賑やかになって大歓迎ですとも、と言いながら月岡は看護師長を取り巻いている四、五人の人々に笑顔でお辞儀した。
ほら、顔馴染みの方もいらっしゃるでしょ? あの何週間か、ずっと一緒にご飯を食べたりしていたんですから。
この続きは、「文學界」11月号に全文掲載されています。
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