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「地下鉄サリン事件」以降の村上春樹――メタファー装置としての長篇小説(前篇)

「地下鉄サリン事件」以降の村上春樹――メタファー装置としての長篇小説(前篇)

文:芳川泰久

文學界11月号

出典 : #文學界

「文學界 11月号」(文藝春秋 編)

村上春樹の負い目

 ところで、村上春樹はインタビューを終えたあとでも、オウム真理教と地下鉄サリン事件が「私たちの社会に与えた大きな衝撃は、いまだに有効に分析されてはいないし、その意味と教訓はいまだにかたちを与えられていない」と言っている。事件後、各種マスコミを通じて関連の情報やニュースが大量に流され、氾濫していたにもかかわらず、村上春樹はそう判断している。その理由は、この事件をめぐって流される情報が「利用し尽くされた言葉」、「手垢にまみれた言葉」でできているからだ。小説家が言うように、マスコミは「〈被害者=無垢なるもの=正義〉」対「〈加害者=汚されたもの=悪〉」といったわかりやすい構図を示したがるのだが、そこには、だれもが使い慣れた言葉しか用いられない。少なくとも村上春樹はそう考えている。そして、だからこそこの小説家は、われわれがいま必要としているのは「新しい方向からやってきた言葉」であり、「それらの言葉で語られるまったく新しい物語(物語を浄化するための別の物語)なのだ」と語るのだ。

 物語を紡ぐのが仕事である小説家にとっては、当然の発言のように聞こえるが、見逃すわけにいかないのは、求められる「まったく新しい物語」が「物語を浄化するための別の物語」と言い換えられていることだ。「物語を浄化するための別の物語」とはどういうことか。そこには二種類の異なる「物語」がある。簡単に言えば、浄化されるべき物語と浄化をはたす物語だ。「目じるしのない悪夢」によれば、前者の物語とは、麻原彰晃が差し出す「ジャンクとしての物語」であり、「部外者から見ればまさに噴飯ものとしか言いようがない物語」ということになる。しかし村上春樹は、そうした麻原の「ジャンクとしての物語」を浄化し得る物語がわれわれの側にある、と言い切れないでいる。次の引用を読んでもらえばわかるように、その点について、小説家は懐疑的という以上に否定的ですらあるように見える。

 

 実際の話、私たちの多くは麻原の差し出す荒唐無稽なジャンクの物語をあざ笑ったものだ。そのような物語を作り出した麻原をあざ笑い、そのような物語に惹かれていく信者たちをあざ笑った。後味の悪い笑いではあるが、少なくとも笑い飛ばすことはできた。それはまあそれでいい。

 しかしそれに対して、「こちら側」の私たちはいったいどんな有効な物語を持ち出すことができるだろう? 麻原の荒唐無稽な物語を放逐できるだけのまっとうな力を持つ物語を、サブカルチャーの領域であれ、メインカルチャーの領域であれ、私たちは果たして手にしているだろうか?

文學界 11月号

2019年11月号 / 10月7日発売
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