「バケツの水なんてどうでもよかったとに。バカねえ」とかなんとか母だか伯母だかに言われ、まるで癇癪(かんしゃく)でも起こしたように泣いた。
一番古いかもしれないと思われる記憶には、なぜか水に関するものが多い。
家族で夕食に出かけた帰り、繁華街から乗ったタクシーで実家の近くまで戻った。実家は長崎特有の坂の途中にあり、軽自動車しか入って行けないので、夜景を見下ろすような九十九折(つづらおり)の道を登り詰めたところで、父はいつもタクシーを止めた。
先にタクシーを降りて、その道を横切った。渡り切った瞬間、雷みたいに背後が明るくなり、ドンと鈍い音がした。二歳下の弟の小さな体が宙に浮いていた。坂を登ってきた別のタクシーに撥(は)ねられたらしかった。僕を真似(まね)て道を渡ろうとしたらしかった。
気の荒い父が撥ねたタクシー運転手をその場で殴ったような記憶がある。次に覚えているのは、その撥ねたタクシーで病院へ向かう車中だ。弟の体が冷たくなってきたと母が慌(あわ)てていた。父に言われ、履いていたタイツを脱ぎ、弟に履かせた。いや、タイツを脱がされたのは、病院の廊下だったかもしれない。とにかく寒い冬の夜だった。
幸い、弟は大事には至らなかった。
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