石積みの塀から大小の石が落ちて、突き当たりの家の門柱が倒れて三つか四つに割れた。往来の者は立っていられずにへたりこみ、交番の巡査が走っていく。盲学校や砲兵工廠の方角からは黒い煙が上がっていた。「旅行どころではない、引き返してくれ!」午後一時の上野発の汽車に乗るはずだったが、このぶんでは線路も壊れたかもしれない。これまでに体験したことがない揺れに家が心配になった竹中時雄は、俥屋に云って切支丹坂を引き返した。
妻と三人の子は、近くの空き地に避難していた。柳行李や蒲団などの家財道具を持てるかぎり持ちだしていた。空き地に集まった誰もが口々に、ほうぼうで火事が起きていると云った。
時雄は、空き地の一角に家族を集めて、無言でじいっと空の彼方を眺めた。地面はなおも揺れつづけ、一向に皆の緊張は解けなかった。
湧き上がった雲の峰が形を変えながら段々と伸びていくようだった。あれは雲ではなくて煙の塊りなのかもしれない。中心のあたりが縺れてとぐろを巻いている。灰色の渦の底のほうに、ときどきパッと赤味が差しつける。鬱血したようなその色の濃さがどうにも恐ろしくて、時雄は取りすがった萌黄唐草の蒲団の端っこを口元に押しつけた。
地鳴りが聞こえる。揺れはやまない。
煙が大気を満たし、家々の屋根に灰が降ってくる。
午砲を撃つような音が聞こえ、喧騒が糸玉のようにからまって通過していく。
「お玉さんも避難しなくちゃ! 一緒に上野公園まで行きましょう」
無縁坂のご近所さんに声をかけられて、お玉婆さん(*4)も風呂敷包を背負って避難所に向かう。
幾筋もの人の流れが、激つ瀬のように街路で飛沫を上げていた。轟々と云う物凄い音が前後左右から響いてくる。知った顔も知らない顔もたちまちお玉婆さんを追い越し、肩と肩をぶつけ、周章てふためいて目の前を横切っていく。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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