別冊文藝春秋

『ものがたりの賊(やから)』真藤順丈――立ち読み

文: 真藤 順丈

電子版29号

「別冊文藝春秋 電子版29号」(文藝春秋 編)

 褌一丁で走っていく大工、襦袢の裾をからげる遊女。

 たくさんの家財や衣類を積んだ大八車を押していく家族。

 ねんねこ半纏に赤子を突っこんで、小さな子供の手を引いていく母親。

 椅子や畳を担いだ女中、老いた父親を背負っていく学生さん。

 念仏を唱えながら、他者を牛蒡抜きにしていくお婆さん。

 諸肌脱ぎで跳ねて、狂いまわっている変人。

 つんのめって転び、背中を駒下駄に踏まれて泣く若旦那。

 勢いあまってぶつかって、将棋倒しになるご隠居やご新造さん。

 お玉婆さんもふうふうと息せき切らせて上野公園に急いだ。見渡すかぎり不忍池は泥土の色を帯びて、どんなときも十羽ばかり鳴きつ羽ためきつしていた雁が一羽もいなくなっている。ああ、雁はいずこに飛び立ってしまったのか、無事に鳥たちが避難できたならいいけど――


*1 券売場の爺 菊池寛『出世』。帝国図書館で長年働いている大男。

*2 叔母の美登利 樋口一葉『たけくらべ』。吉原に暮らす少女・美登利と僧侶の息子・信如の淡い初恋が描かれる。一八九〇年頃の出来事なので、震災の年(大正12)には美登利は四十代になっている。

*3 竹中時雄 田山花袋『蒲団』。妻と子のある作家だが、弟子入りしてきた女学生に片想いして、性欲の悶えにまかせてその蒲団の匂いを嗅ぐ。

*4 お玉婆さん 森欧外『雁』。高利貸しに囲われているお玉が、医学生の岡田にひそかな恋心を寄せる。お玉は一八八〇年(明治13)の当時で十九歳なので、震災の年は六十二歳の見当になる。この年齢になるまで独身を貫いた模様。


参考文献:『関東大震災』吉村昭/文春文庫
『九月、東京の路上で 1923年関東大震災 ジェノサイドの残響』加藤直樹/ころから
『証言集 関東大震災の直後 朝鮮人と日本人』西崎雅夫・編/ちくま文庫

 

別冊文藝春秋からうまれた本

別冊文藝春秋 電子版29号(2020年1月号)文藝春秋・編

発売日:2019年12月20日


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