鴻巣 一方川上さんは、『すべて真夜中の恋人たち』を出されてからの間に、妊娠、出産、非常に大変な時期の子育てというのを経た。ご自身の一連の経験は、AIDという題材を選んだことに関連しているのでしょうか。
川上 自分の経験の文章化ということでいえば、『きみは赤ちゃん』というノンフィクションを書いたので、そこで完結していると思います。それとは別に、創作の動機として、常に倫理全般への欲望があります。信仰や善悪や生命倫理……その中でも生殖は発端という感触があります。妊娠して出産をするというのは、いったい何が何をしていることなのか。それはいいことなのか、そうでないのか、あるいはそういった評価と関係ないことなのか。書くことで理解したいとかではなく、自分が問題だと思うことを、その時できる技術の限りをもってやっておきたいという気持ちがありました。
書くことと、産むこと
鴻巣 書くということは、ある意味で体験の総括というか、反復になると思うのですが、子育ても似たようなところがありますよね。J・M・クッツェーは、「人生というのはステップも分からずに放り込まれたダンスみたいなものだ」と言っています。ただただみっともなく踊り続けて、やっと少しステップが分かってきたかなと思う時には人生は終了。自分が生きている時は精いっぱいで、学校に通って、仕事をして、その時は何が正解か分からないし、他の人が何を選んだかもわからない。
だけど自分の子どもが生まれて、他人ではあるけど、間近で見ることによって、自分は何をやってきたのかということの確認、「これはこういうことだったのか」みたいな反復体験の部分というのが、子育てにもあるのかなと。作品の構想が生まれることもコンセプションだし、妊娠もコンセプション。言葉をはらむ、人間をはらむ。創作するということと、子どもを産み育てるということは、根本的に通底するものがある気がしています。
『夏物語』に出てくる、夏子の担当編集者の仙川涼子は選択的というより結果論的なチャイルド・フリー論者で、「私は子どもを産まなくてよかったなと思ってる」と言います。自分の時間がなくなる、仕事が大変になる、でも「みんなそんなの分かってて産むのよね」と。「自分が受験だとか就職だとか結婚するのしないのめんどくさいことをいっぱいやってきたのに、子どもが同じことをまた全部やるわけでしょう」と、それを「ご苦労なこと」と表現する。
後のページでこれに切り返すように、仙川に対して夏子の作家仲間の遊佐リカに「ご苦労なこと」と言わせ、川上さんはここでも複声を対立させます。私は、身近で子どもが大きくなっていく過程を見ていると、反復性より命の一回性を強烈に感じることがあるんです。
川上 生まれて死んでいくということは誰しも初めてのことだから、本当に人生が一回だけかどうかも分からないですよね。でも、二回目だという人に会ったことがないから、おそらく二回目はなさそうだと。そうこうしているうちに、一回性というのがどういうことなのかを、常に取り逃がしてしまう。
でも、精子とか妊娠などに対しては、人によって考える位相が全く違います。精子ひとつとっても、例えば同じ男性でも逢沢潤と恩田とでは全く違う価値と意味を持ちますし、卵子もそう。同じように子どもを持つことも、仙川さんはいわゆるチャイルド・フリー的な観点から発言をする。一方、緑子や逢沢潤の恋人である善百合子が言う「無いところに在るを生む」という問題は、社会的、二次的なことじゃなくて――痛みの有無や総量を基準にしている点では功利主義的とも言えますが、原理を疑う倫理的な問いかけですね。
鴻巣 そうですね。百合子と、遊佐は原理主義者の両極ですよね。
川上 遊佐は真面目ですよね。他人とのわかりあえなさなんて、みんな適当に濁してゆるく生活を維持しているのに、それがいわゆる家族の条件でさえあるのに、それができない。こんなふうに、一つの場所で無数の生が生きているけれど、みんなが同じ生について同じように語ることはできないということが、生殖倫理の根本にあります。
自分が子育てをしていて思うのは、肉体的なしんどさ、あるいは喜びとは別に、いずれその意味が問われ、いずれ強制的に退場させられるものを、その機会を私が作ってしまった――。ある角度から考えれば、とんでもないことをしてしまったともいえるわけです。もともと私はどちらかと言うと緑子のタイプで、そういうことはしないだろうと思っていた。ないところに子を増やすのではなくて、必要であれば、親を求めている人の親になることが良いのではないかと思っていたんです。
鴻巣 たとえば養子とか?
川上 そうです。ただそれは調べれば調べるほど現実的にハードルが高いし、私は配偶者ができて、相手が子どもを作りたいという気持ちが強かった。でも、生んだのはやっぱり私です。ただ、妊娠と出産というのは、ないところからあることを作る行為なのかは、分からないですよね。小説には書きませんでしたが、ないものは最初からないから現れないのであって、卵子と精子がもともとある、その状況の単なる変化なのではないか。不生不滅というか、何も生まれないし何も滅しないという視点もある。だから、妊娠も出産も雨降りのようなものかもしれないという余地はある。
鴻巣 一時的な現象であると。
川上 はい。何も減らないし、何も増えない。けれど、「痛み」はある。登場人物たちは男も女もそれからヤマグという過去の同級生も、子どもたちも、そして善百合子も、みんなそれぞれ具体的な痛みを抱えています。痛みってなんなのか。他人の痛みを実感できないということはどういうことなのか。それらはどうされるべきなのか。そういう動機がずっとふつふつとあって、この物語に収斂されていった、あるいは拡大されていきました。