取り返しのつかなさ
鴻巣 反出生主義に触れて、川上さんは「子どもを産むというとんでもないことをしてしまった」という言い方をされましたが、この作品のテーマは、生というものの不可抗力と不可逆性。それから、自分であることの不可避性が、幼い時の緑子の強烈な違和感を起点としてずっと書かれている。緑子は日記に、「わたしは勝手におなかが減ったり、勝手に生理になったりするような体がなんでかここにあって」「なかに、とじこめられてるって感じる」と書く。これは、その後の百合子の「一度生まれたら、生まれなかったことにはできないのにね」といったセリフに重なってきますね。
また、緑子は巻子と言い合いになって、「わたしを生んだ自分の責任やろ」とも書く。だけど、その後「お母さんが生まれてきたのもお母さんの責任じゃない」と気づく。これは、後半の百合子のセリフと輪唱で百合子のセリフが追いかけてくる。頼んで生まれてきた人はいない、「子どものことを考えて、子どもを生んだ親なんて、この世界にひとりもいないんだよ」と。産むことが一方的で暴力的であると、夏子もその点は認めている。英語で「生まれる」を「I’m born」つまり「生まれさせられる」ですよね。
川上 いわゆる反出生主義は基本的に「生まれてこなければよかった」、あるいは「生まないほうがいい」。でも、それも立場によって違います。多くの女性が感じる、生む/生まないということに対するオブセッションと、いわゆる男性が感じるそれには大きな違いがある。いっぽう、「生まれてこなければよかった」という感想にも「生む性であるかないか」によって違いがありそうです。反出生主義的思想の人はたくさんいるけれど、たとえばシオランやベネターと善百合子は、まったく違うと思いますね。
鴻巣 産まない性であるシオランには『生誕の災厄』という著書があるのですね。私自身は、生は災いというか、生まれてこなければそれが一番楽だったというふうに常にどこかで思っています。産む性である以上、これは必ずおのれの妊娠出産にはね返ってくる考えなわけですが……。百合子は、「十人の子どもは、ぐっすり眠っている。そこには喜びや嬉しさもないし、もちろん悲しみや苦しみといったものも存在しない。なにもないの」と言う。つまり「子どもを作るというのは寝た子を起こすことで、十人中一人は死ぬよりつらい苦痛を与えられて生きていくことになるんだ。だからもう誰も起こすべきじゃない」という趣旨のことをパラフレーズして繰り返しますね。
川上 若い人たちの実存的な困難と親和性が高いこともあって、反出生主義をめぐる議論はネット上にもたくさんあります。反出生主義の比喩もたくさんあって、たとえば「乗りたくもないジェットコースターに乗せられて、嫌なら途中で降りろと言われているようなものだ」とか。
いま、鴻巣さんが例にあげられた箇所も、ネット上に「村人の比喩」という卓越した比喩があって、善百合子がそれを読んだという体裁で引用しアレンジしたものです。ほかには二年前にデイヴィッド・ベネターの『生まれてこないほうが良かった――存在してしまうことの害悪』という本が翻訳され話題になりました。反出生主義というとどこかで笑いが起こるというか、単なる未熟な不平不満、くらいに捉えられている向きがあるんですけど、わたしは議論されるべき問題だと思っています。
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