大阪弁の奇形化
鴻巣 標準語も大阪弁もすごく緻密に組み立てられている。とくに大阪弁は……大阪弁の破壊と創造というのを同時に感じました(笑)。視点が複数入って、時制もあっさり変わって、そこに地の文と会話が一緒になる。ポストモダンなんか知るかと言わんばかりの叙法ですよね。前半はそれで突っ走っていく。『乳と卵』に加筆したことによって、作中で遊佐が言うところの、「語りの最高形態」を目指すために、言葉も奇形化するし、コンテンツも奇形化する。またそれによって言葉が……というふうにエスカレートしていく。あの破壊と創造の混沌は、『乳と卵』より相当に意図して押し進められていると思うのですが、いかがですか。
川上 千二百枚書いて、結局二百枚削りました。読み進めるリズムを出すように刈り込んで、調整して。地の文は基本的に標準語にし、そこに大阪弁をミックスさせていくのはいわゆる多声の多層化で、今回の作品には必要な語りの形式でした。
鴻巣 もともと書き言葉って、虚構みたいなもの。それがさらにフィクションの中にあるから虚構性が二重になる。大阪弁を地の文にもドーッと侵食させていくところがあって、川上未映子の文体が先鋭を極めたという感じがありました。
川上 言語の形態から出てくる発想の部分もあると思います。言語が思考を決定するというか、日本語にしろ大阪弁にしろ、形式は内容に大きな影響を与えます。夏目夏子というのはもちろん漱石と樋口一葉からきています。ストリートの感覚、今回では大阪弁の部分と、漱石的な標準語が持っている観念的な領域というか。対比され得るものはなんであれ、本当には分けられるものではないけれど、でもそれぞれが象徴するものってありますよね。
それらが混ざりあっている女性が物語の語り手であるということ。いわゆる中央の文脈に対して、大阪弁とかローカルというものがいったいどのように機能するのか。一葉みたいなストリートであり女でありという、そういうものがどのように機能していくのかを、主人公にではなく、「語りそのもの」に語らせたいというか。
鴻巣 日本の標準語はたくさんの人が使っていて、世界で最も成功した人工言語の一つ。でも、標準語で表現できない領域がたくさんあるなというのを、実感したんです。とくにこの時制も視点も地の文も会話もゴッチャになった語りの極限は、標準語で同程度にできるだろうか、と。
川上 奇形化、あるいは特殊なダイナミズムを表す時に、必ずしも関西弁である必要はないと思います。ただ、どうも関西弁自身の人柄というものがあって、それが連れてくるものってありますよね。その代表的なものがノリツッコミのリズムとか、会話の脱臼とか笑いです。それが登場人物のキャラクターとか小説の世界観とかを超える場合があるんですよね。しかし標準語でも、それ以外でも、私たちがまだ目にしたことのないようなリズムとしか言いようのない文章がありえるはずです。
鴻巣 まだ探り当てられてないだけ。
川上 はい。たとえば、夢の言語とか、死者の文法とか、私たちはまだ言語にできてないものをたくさん持っている。それは誰とも共有できていない、なぜならば言語にできないから、みたいな領域をみんなが持っている。それの一番近似値を取って、あるいはアクロバティックな手続きを取ってノックすることをやっているのが詩人です。小説はまた違う文法です。
長いものを書くとき、頭に浮かぶのがフィギュアスケートのイメージです。丁寧に技を決めていく。エピソードを重ねていって、表現点でも技術点でも、すべて決めていく。それとシンフォニーのイメージ。すべての音、すべての息遣いが全体に資しているように、小説を作っているのはひとつひとつの言葉ですよね。固有名詞はもちろんですが、ちゃぶ台がどのようなタイミングでどのような音を立てるのか、その時にテレビは何がかかっていて、カギ括弧のセリフの後、どのような描写で受けるのか。読み飛ばされる、普通の読者は気にも留めないところが作品を支えます。そうして最後に何が残っているかというと、わたしの場合は情景描写なんです。セリフでも、議論でも、エピソードでもなく、情景描写がやっぱり私の仕事なんだなと思いました。
窓が描き出すもの
鴻巣 情景描写といえば、窓が印象的に使われていますよね。まず冒頭に、窓の数を尋ねればどれだけ貧乏だということが分かるというような話がある。巻子と緑子が夏子のアパートに泊まりに来た最初の晩に川の字で寝るところで夏子は、新聞に挟まっている家のチラシ、そこにいっぱい窓を描いて、「みんなにひとつずつ好きなときにあけられる窓を、描こう、描いたら、光が入って風が入って」と思いながら寝る、そこから風景が立ち上がるというふうになっていたり。あと、私が好きなのは、緑子を連れていった遊園地で、観覧車のゴンドラの中で夏子が話した葡萄狩りのエピソード。泣きました。
川上 ありがとうございます。
鴻巣 夏子が幼稚園の頃、お金がなくて遠足の葡萄狩りに行けなくなったら、巻子が、パンツとか靴下を吊るして「これで葡萄狩りするんだ」と言ってくれたという。なぜゴンドラの中で葡萄狩りの話なんかしたんだろうというと、「ぶどう色やから」と一言緑子が筆談で伝える。そこには、「緑子は一面が薄むらさきに染まった窓の外を示してわたしの目を見、それからまたすぐに窓のほうに顔をむけた」と。そして「手を伸ばせば、世界を包んでいる膜にそっとふれることができそうだった」という箇所がある。
窓は外界と接する境界でもあるし、外界を覗き見られる穴みたいなものでもあるし、この世界の余白みたいな部分でもある。『嵐が丘』でも、マージナリア(余白)として窓が描かれています。『夏物語』でも、人々の感情や情感、あるいは何か思いをはせるもの、そういうことが書かれる時に窓というマージナリアが出てきて、受け止めているような感じがしたんです。
川上 『夏物語』は、窓から扉に向かう話ですよね。ゴンドラは、窓と扉が同時にある世界で唯一の場所なんです。