春花は一歩横にずれた。じゃあ失礼して、と口の中で言いながら私は足を踏み出した。背負ったリュックを持ち上げるように背中で手を組み、背表紙の文字を見た。うしろで春花がすばやく数歩動き、クロゼットを開けて何かを放り込み勢いよく閉めた。本棚のテレビと、その横に置かれたアロマディフューザーのボトルの水面が、その音に少し揺れた。窓の外の道を大型トラックが走りすぎた。私はこの通り沿いの、七つ南のブロックに住んでいた。急ぎ足で歩けば十分もかからない距離なのに、音も光も届かないはるか遠くのように感じられた。
――奥さんの本とくらべて、どうですか。
――どうって言われても……。奥さんという言葉が私は嫌いだが、妻を絵奈と、名前で呼んでくれとも言えない。咄嗟に呼称を思いつけず、私は振り返らないまま曖昧に頷いた。まあ……、趣味が違うなとは思うけど。
――そうでしょうね。わたしあんまり、と春花は絵奈が好んで読む作家の名を挙げた。あの人の本、好きじゃなくて。
――そんな話したっけ。
――二年くらい前。先輩もあんまり好きじゃないって言ってましたよね。
――よく憶えてるな。
やりとりを続けながら、私は本棚から目を逸らせずにいた。視界の中心にある背表紙の文字は、もちろん目に入ってはいたが、まったく頭のなかで意味をむすばなかった。微動だにしない私に焦れたように春花は動き、ビーズカーテンをかき分ける音を立てた。冷蔵庫のオレンジ色の光を浴びてペットボトルを取り出した。
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