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光の状況

光の状況

文:水原 涼

文學界3月号

出典 : #文學界

「文學界 3月号」(文藝春秋 編)

 春花は一歩横にずれた。じゃあ失礼して、と口の中で言いながら私は足を踏み出した。背負ったリュックを持ち上げるように背中で手を組み、背表紙の文字を見た。うしろで春花がすばやく数歩動き、クロゼットを開けて何かを放り込み勢いよく閉めた。本棚のテレビと、その横に置かれたアロマディフューザーのボトルの水面が、その音に少し揺れた。窓の外の道を大型トラックが走りすぎた。私はこの通り沿いの、七つ南のブロックに住んでいた。急ぎ足で歩けば十分もかからない距離なのに、音も光も届かないはるか遠くのように感じられた。

 ――奥さんの本とくらべて、どうですか。

 ――どうって言われても……。奥さんという言葉が私は嫌いだが、妻を絵奈と、名前で呼んでくれとも言えない。咄嗟に呼称を思いつけず、私は振り返らないまま曖昧に頷いた。まあ……、趣味が違うなとは思うけど。

 ――そうでしょうね。わたしあんまり、と春花は絵奈が好んで読む作家の名を挙げた。あの人の本、好きじゃなくて。

 ――そんな話したっけ。

 ――二年くらい前。先輩もあんまり好きじゃないって言ってましたよね。

 ――よく憶えてるな。

 やりとりを続けながら、私は本棚から目を逸らせずにいた。視界の中心にある背表紙の文字は、もちろん目に入ってはいたが、まったく頭のなかで意味をむすばなかった。微動だにしない私に焦れたように春花は動き、ビーズカーテンをかき分ける音を立てた。冷蔵庫のオレンジ色の光を浴びてペットボトルを取り出した。

文學界 3月号

2020年3月号 / 2月7日発売
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