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赤い砂を蹴る

赤い砂を蹴る

文:石原 燃

文學界6月号

出典 : #文學界

「文學界 6月号」(文藝春秋 編)

 いつか一緒にブラジルに行って、ブラジルの大地に立つ芽衣子さんを描いてみたいと母も言っていて、芽衣子さんとブラジルに行くのを楽しみにしていた。

 でも、結局母はブラジルには行けなかった。

 自分の作品に取り組むかたわら、美大で油絵を教えていた母は、なかなかまとまった休みがとれなかったし、芽衣子さんは芽衣子さんで家のことがいろいろあって、日本を離れられないことが多かった。そうやってタイミングを逃し続けるうちに母は体調を崩し、二年前の年明けに肺に大きな癌が見つかって、旅行どころではなくなってしまったのだ。

「代わりに千夏に描いてもらって、って恭子さんが言ってた。」

 はじめて芽衣子さんが言いだしたときは、むちゃを言うなと笑うしかなかった。

 母がいなくなって半年たったころだったか、知りあいの店を借りて母の追悼展を開いた。その前夜、せっかくだから生前お世話になった人たちを招いてちょっとしたパーティーをやろうということになり、芽衣子さんが料理を担当してくれたのだった。

 ほろ酔いになった人たちが無責任に、それはいいね、そうしなよ、と盛りあがる。

「私は絵なんか描けないよ。」

 と、憮然として答える。

 子どものころはよく母の道具を借りて油絵を描いたりしたけれど、いつ頃からか、絵の世界から距離をとるようになった。大学を出てからは小さい出版社に勤め、いまはフリーのライターをしている。

 それはわかってるけど、と芽衣子さんが暗い声を出すので、あわてて言葉をつけ足す。

「ブラジルには行ってみたいけど。」

「来年か再来年、久しぶりにいこうと思ってるの。一緒にいかない?」

 とたんに芽衣子さんが目を輝かせるので、ちょっと笑ってしまう。

「いいけど、旦那さんひとりにして大丈夫なの?」

 夫の雅尚さんはここ数年、介護が必要な状態になっていた。アルコールが原因で、それでもなお、お酒を飲み続けているという。芽衣子さんはつまらないことを言うなとばかりに口を尖らせて、なんとかなるわよ、とつぶやいた。

「もうあの人のために我慢するのはやめたのよ。」

 小さいけれど、きっぱりした声だった。

 

この続きは、「文學界」6月号に全文掲載されています。

文學界 6月号

2020年6月号 / 5月7日発売
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