傷が膿んでいくようなやるせなさを、どうやって消化すればいいんだ。
消化というかなんというか、結論めいたものを本作では、春樹さんが作った架空の作家・ハートフィールドによる小説で引用している。
ところで私は彼が架空の作家と知らず、ネットショッピングで在庫を探し回って、ショックを受けた。
〈つまり我々は時の間を彷徨っているわけさ。宇宙の創生から死までをね。だから我々には生もなければ死もない。風だ。〉『風の歌を聴け』p.127
このあと「僕」が、うまくいかない家族のことで落ち込む「彼女」に対しても、〈風向きも変わるさ〉と答えるシーンもある。
生きていれば、いろんな風が吹いていく。
いい風もあれば、わるい風もある。
なにもせず、そのまま身を任せたらいい。
親との軋轢も、その後ろめたさも、考えたってどうしようもないのだ。
だから春樹さんは、人間を風に例えた。
私は、ごくごく身勝手に、そう解釈した。
そして、『猫を棄てる』に戻り、春樹さんの変化に気づいて、衝撃を受けた。
猫を棄てると、風が雨になっていた衝撃
『猫を棄てる』で、お父さんの記憶と記録をたぐり終えた春樹さんは、人間をこのように結論づけている。
〈言い換えれば我々は、広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴に過ぎない。
(中略)
しかしその一滴の雨水には、一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある。我々はそれを忘れてはならないだろう。たとえそれがどこかにあっさりと吸い込まれ、個体としての輪郭を失い、集合的な何かに置き換えられて消えていくのだとしても。〉『猫を棄てる』p.96
ウワァーーーー!なんてこった!!!!
29歳の春樹さんは、人間を「残ることなく自由に流れていく風」と例えていたのに、71歳の春樹さんは人間を「歴史を受け継いでいく雨」と例えている。
2風が雨になった。
この二つが持つ役割は、ぜんぜん違う。
人生の意義レベルでめちゃくちゃ違う。
それでも、春樹さんのなかで、変わったのだ。
春樹さんがお父さんの傷を知り、伝承と生死について考えた。
すると風に代わり、雨という答えが顔を出した。
春樹さんは「傷を受け継ぎ、言葉にして、生きていく」ことを選んだ。
すべての親は、子どもの心に傷をつけて生きていく
話が少し戻るが、私が昔から抱いていた一つの疑念が、確信になった。
おそらく、すべての親(または親代わり)は、子どもの心に傷をつけるということだ。
それが良い親であっても、悪い親であっても。
傷は、寂しさ、怒り、劣等感、期待など、いろいろだ。
時には、愛すらも傷になる。
愛が大きければ、傷も大きくなることもある。たとえば死別はそうだ。
私の父は、私にとって良い親であったけど、それでも「死に際に救急車で、私の名前を何度も呼んでくれたのに、立ち会えなかった」ことが私の傷になっている。
傷の痛みは、人生においてつきまとう。
だけど、引き継ぐことが歴史と人間の本質である以上、治すことも払うこともできない。
じゃあ、どうすればいいのか。
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