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村上春樹『猫を棄てる』みんなの感想文(8)一滴の雨粒として、糸を紡ぐ

村上春樹『猫を棄てる』みんなの感想文(8)一滴の雨粒として、糸を紡ぐ

文:imamibookus

村上春樹『猫を棄てる』感想文コンテスト

両親が私に普通であることを求めれば求めるほど、私は普通でなくあろうとした。

高校を卒業し地元を離れ、行きたい大学に入り、大学院でしたい勉強をし、大学時代に出会ったタイ人のいまの夫と暮らすためにタイに移住した。

タイに移住することを打ち明けた当初は、タイに行くなら親子の縁を切ると母に言われていた。

本心ではなかっただろうが、ちっとも思い通りにならない娘に対する、最後の抵抗だったのではないかと思う。

そんな母も、時間というのは偉大で、数年をかけて、トムヤムクンが大好物になり、自分で作るようになるまでに変化した。

私が決めた道を、最終的には応援してくれる両親がいたおかげで、私はこれまで好きに生きてくることができた。

自分の思いとは違っても応援してくれるのは、揺るがない血縁のおかげなのだと、私はこの本を読むまで勝手に解釈していた。

親と子で紡がれる糸

出産後、血縁というものに特別なものを感じる気持ちが大きくなっていく日々に、この本を手にとった。

そんなこと考えたくもなかったけれど、試しに、我が子が、偶然の産物によって、私の手のなかにいると仮定してみた。

すると、自分が生まれてからいままでの記憶のかけらが集まってきた。

ささいなものばかりで断片ばかりだけど、とても具体的に。
そのときの感情や、匂いや、体温とともに。

春樹さんが自分の軌跡をたどったように、私も私なりに私の軌跡をたどった。

そしたら、なぜだか、張りつめていた気持ちが少し楽になって、ほぐれていくような心もちがした。

母がトムヤムクンを好きになったのは、絶対的な血のつながりのせいではないことがわかったからである。

〈たとえば僕らはある夏の日、香櫨園の海岸まで一緒に自転車に乗って、一匹の縞柄の雌猫を棄てに行ったのだ。そして僕らは共に、その猫にあっさりと出し抜かれてしまったのだ。何はともあれ、それはひとつの素晴らしい、そして謎めいた共有体験ではないか。そのときの海岸の海鳴りの音を、松の防風林を吹き抜ける風の香りを、僕は今でもはっきり思い出せる。そんなひとつひとつのささやかなものごとの限りない集積が、僕という人間をこれまでにかたち作ってきたのだ。〉(太字は筆者)
『猫を棄てる』(p.88-89)

親と子の間に、初めから絆があるわけではない。月日をかけて、共有体験を重ねることによって、ともに築いていくのである。

血がつながっていてもつながっていなくても、別々の個体であり、人格である。親が親として、子が子として付き合っていく過程で、縁という糸が紡がれていくのではなかろうか。そしてその両端を、互いが握っているのである。

だから、糸の種類も紡ぎ方もそれぞれで、一つとして同じ家庭はないし、私がコンプレックスに思っていた「普通」は「普通」ではなかったのである。

春樹さんが最後の最後にお父様と和解のようなことをできたのも、それまでに紡がれた糸があったからである。一度手離した糸を双方が再び握ったからである。

そして私の母がトムヤムクンを好きになったのも、私と母の間に、ともに紡いだ糸があったからである。

一滴の雨粒としての責務

〈我々は、広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴に過ぎない。固有ではあるけれど、交換可能な一滴だ。しかしその一滴の雨水には、一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある。我々はそれを忘れてはならないだろう。〉
『猫を棄てる』(p.96)

「無条件に、この子を守る」

この気持ちも大切に持ち続けたい。

ただし、一滴の雨水の責務として――自分が子として、そして親として――紡いでいく糸も存在するのだ。

この本は、その糸を目に見えるようにしてくれた。

大きな後悔をする前に。
一滴の雨水が落ちて消えてしまう前に。

Imamibookus  https://note.com/imamiku

 


「#猫を棄てる感想文」コンテストについては、「文藝春秋digital」の募集ページをご覧ください。
また、感想文は「村上春樹『猫を棄てる』みんなの感想文」で、まとめて読むことができます。

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単行本
猫を棄てる
父親について語るとき
村上春樹

定価:1,320円(税込)発売日:2020年04月23日

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