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ヒマラヤ杉の年輪

ヒマラヤ杉の年輪

文:二瓶 哲也

文學界8月号

出典 : #文學界

「文學界 8月号」(文藝春秋 編)

「お子さんは、お幾つ?」最初に質問してきた女性が言った。

 子供どころか、結婚もしていないと答えた。

「あら、意外だわ」そう返す彼女の顔が、少し赤らんだように見えた。

 自己紹介が済むと、岸川マネージャーが話題を変えた。きのう他の病院で起きた使用済み針刺し事故を伝えた。糖尿病患者が自身で使用するインスリン注射針がトイレのゴミ箱に捨ててあり、回収していた清掃員の手に刺さってしまったのだという。当該の清掃員は今後一年間にわたり、肝炎や血友病といった血液感染症の検査を余儀なくされていた。医療従事者ではなく、一般患者の無責任な行動から端を発した事故だった。

「いつも口酸っぱく言ってますが、慢心はいけません。こんなところに注射針があるはずがない、そんな場所でも充分注意して下さい」そう言って岸川マネージャーは、ゴミを回収する際には防針手袋着用の徹底を促した。私も針刺し事故防止用の分厚いゴム手袋を渡されていた。試しに嵌めてみたが、指を曲げるのにひと苦労だった。これでは間違いなく、箸をもって飯は食えない。

 朝礼が終わると、それぞれが持ち場に向けて準備を始めた。私は、男性アルバイトの羽生田(はにゅうだ)さんに追随しながら、仕事を覚える手はずになっていた。羽生田さんはこの先三日間、私に仕事の手順を教えたのち人手の足りない他の病院へ異動するとのことだった。岸川マネージャーの話では羽生田さんは四十八歳の独身で、プロの脚本家を目指しているらしかった。病院内清掃の仕事を始めて四年になるが未だ夢は実現していないという。脚本家になる方法を知る由もない私だったが、四十を過ぎても夢を諦めきらない羽生田さんに同朋意識を感じつつも、哀れに思えたのも事実だった。

文學界 8月号

2020年8月号 / 7月7日発売
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