このように加害者の権利ばかりが優遇され、被害者とその遺族はないがしろにされてきた現実がありました。そんななか、犯罪被害者の団体である「あすの会」の精力的な活動により、2004年に犯罪被害者等基本法が成立。第3条に、「すべて犯罪被害者等は、個人の尊厳が重んぜられ、その尊厳にふさわしい処遇を保障される権利を有する」と定められ、ようやく被害者の権利主体が明確に認められることになりました。しかし、被害者には未だに憲法上の権利はありません。そして、法律上の権利が認められて日が浅いこともあり、被害者の権利は様々な面で不十分であることには変わりがありません。
こうした経緯から、日弁連の体制も未来の弁護士を育てる司法修習生の授業も、加害者の権利を守ることに重点が置かれています。
たとえば、司法試験では、被疑者・被告人の権利に関する問題はたくさん出題されますが、被害者の権利についてはほとんど問われません。出題されたとしても配点が低いので、間違えても合否に影響しない程度です。
また、司法試験に合格すると、司法修習生という国家公務員に準じた身分を取得し、司法研修所という学校のようなところに通い、国から給料をもらいながら勉強を続けます。研修所の卒業試験に合格してようやく弁護士を名乗ることができるのですが、ここでも被告人の側に立って刑事事件の弁護をしなければならないという刷り込みを受けるのです。研修所では、履修する5科目のうち「刑事弁護」という科目があり、その名の通り刑事事件の弁護について勉強します。弁護士と一緒に身柄拘束された加害者に実際に会いに行って、弁護の方法を考えたりする「実務修習」もあります。
ところが、「刑事弁護」はあくまで加害者を弁護するための科目ですから、被害者支援について考えることはしません。卒業試験では必ず、「被告人は無罪」という結論で答案を作成しなければならず、「有罪」という答案を書いたら不合格となり、弁護士にはなれないでしょう。
そんな研修を受けた弁護士が刑事事件に関わるわけですから、被害者支援よりも加害者の弁護に熱心なのは必然なのかもしれません。また、弁護士会に新人として登録すると、刑事弁護の研修を義務づけられますが、被害者代理人の研修は義務ではないのです。つまり、弁護士が被害者支援をしようと志す機会自体がないということです。
しかし、被疑者・被告人の権利擁護と被害者救済は両立するはずです。犯罪を認めている被疑者・被告人であれば、謝罪をして被害者に真摯に向き合えば、被害者の被害感情が和らぐこともありますし、それによって刑が軽くなる可能性もあります。犯罪事実を争っている事件であっても、被害者を侮辱したり貶めたりする必要はないはずですし、そのような訴訟活動は、裁判員や裁判官に嫌悪感を抱かせ、かえって刑を重くする事情になります。つまり、被害者の支援に目を向けずに行う被疑者・被告人の弁護は、本当の意味で彼らを救っていないのではないでしょうか。
そのような弁護士業界の実情を後目に、少しずつではありますが、被害者の地位や権利は強くなってきました。それは国民が望む形でもあると思います。死刑に関しても、内閣府が5年に一度行っている世論調査の最新版で死刑賛成が80.8%だったのに対し、死刑反対はわずか9.0%にすぎませんでした。ということは、犯罪被害や死刑制度について、弁護士と国民の意識は大きく食い違っており、この「ズレ」は様々な問題をはらんでいると思われます。
死刑反対派への反論
では、死刑制度に関して、どのような意見対立があるのでしょうか。
一般的に、死刑制度に賛成する考え方を「死刑制度存置派」、死刑制度に反対する考え方を「死刑制度廃止派」と言いますが、本書では、「死刑賛成派」「死刑反対派」と表現することにします。
死刑反対派は、その根拠として様々なことを挙げていますが、主な理由は次のようなものです。
(1)死刑にしても亡くなった人は戻ってこないのだから、生きて償うべき
(2)死刑は「残虐な刑罰」であり、国家による殺人であるから許されない
(3)死刑にすると、冤罪であった場合に取り返しがつかない
(4)死刑廃止は世界の潮流である
(5)死刑に犯罪の抑止力はない
(6)刑罰は「応報」のためにあるのではないから、遺族感情を重視するのは近代法の精神に反する
ここでは、それぞれについて死刑反対派の主張の根拠と、我々死刑賛成派の反論を簡単に述べたいと思います。
まず、「死刑にしても亡くなった人は戻ってこないのだから、生きて償うべき」は正しいのでしょうか。確かに死刑反対派の言うとおり、加害者を死刑にしても、亡くなった人は戻ってきません。しかし、だからこそ遺族は死刑を望むのです。人を殺しておいて自分だけは生き延びるという、理不尽が許されていいのでしょうか。それに、「生きて償う」といっても、具体的に何をどのように償うのかわかりません。服役するということは、国民が納めた税金で衣食住を賄われ、単に「生きている」だけです。これでは何の償いにもなりませんし、遺族は納得できないでしょう。
実際、闇サイト殺人事件で娘さんを殺された磯谷富美子さんは、「犯人の1人に死刑が執行された翌日から、その犯人のことを考えなくてすむようになった」と心情を語っています。死刑によって、遺族に心の平穏が訪れるというのはとても重要なことです。
次に、死刑は「残虐な刑罰」であり、国家による殺人だから許されないという主張があります。これは、日本国憲法第36条が「残虐な刑罰」を禁止していることに依拠しています。しかし実は、最高裁は日本の死刑執行方法である「絞首刑」を「残虐な刑罰に当たらず合憲である」とし、それに対して「火あぶり、はりつけ、さらし首、釜ゆで」などは「残虐な執行方法」である旨を明確に述べています。また、別の最高裁判例は、各国が採用している「銃殺、電気殺」などと比較のうえ、絞首刑が「特に人道上残虐であるとする理由は認められない」として合憲判断を示しているのです。ですから、「残虐な刑罰であり、国家による殺人」という主張も的外れといえます。
また、「冤罪であった場合に取り返しがつかない」もよく言われることです。しかし、冤罪は死刑の場合にだけ問題になるわけではありません。懲役1年でも無期懲役でも、冤罪であれば取り返しがつかないことは同じです。それに、冤罪を一番望んでいないのはご遺族です。冤罪であるということは、真犯人は何食わぬ顔でのうのうと生きていることに他ならないからです。冤罪を防ぐことは、科学捜査の進展と適正な刑事手続きによって実現されるものであり、死刑と結びつけることは論理の飛躍です。
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