特集

隠し女小春

文: 辻原 登

文學界9月号

「文學界 9月号」(文藝春秋 編)

第一章
 

1
 

 午後十時過ぎに帰宅した矢野聡(やのあきら)は、玄関脇の寝室のドアを開け、明かりは点けないで、ベッドのヘッドボードに半身を凭(もた)せ掛けている小春に、

「ただいま」

 と小声で挨拶した。

 小春は身じろぎし、聡を一瞥して小さく頷く。

 聡は息を詰めるようにしてドアを閉め、廊下を奥の部屋に向かって進んだ。

 彼は、五階建て分譲マンション三階の1LDKに住んでいる。購入したのではなく、投資目的で所有している不動産会社の物件を賃借しているのだ。床面積は45m²と決して広くないが、廊下を挟んで左側に寝室、対面式キッチン、右側にトイレ、洗面所、バスと振り分けになって続き、十畳ほどのLDKに辿り着く。LDKには大きめのクロゼットも備わっていて、聡のような独身者にとっては暮らしやすい間取りである。

 彼は点灯する前に、クロゼットの左隣に置かれている水槽に近付き、

「御機嫌いかが?」

 と話し掛ける。

 水槽はクリップ式の小さな蛍光灯に照らされている。二尾の赤白更紗(あかしろさらら)のコメットが吹き流しの長い尾を振り、先を争って水面に上がって来て、エサを待って口をぱくぱくし始めた。赤一色のらんちゅうは、定位置であるヒーターコードと水槽の角の隙間からゆっくり右旋回しながら浮上して、彼の呼び掛けに応じてくれた。彼らは三年前、本郷にある金魚専門店「金魚坂」の生簀(いけす)から運ばれて来た。

 彼はエサをやったあと、彼らが所定の位置に戻るのを見届けて蛍光灯のスイッチを切り、水槽に遮光シートを掛け、LDKのメインライトを点灯した。

 窓に近付き、バルコニーに面したガラス戸を片側だけ開け、夜気を入れて、日中閉め切っていた部屋の風通しをする。そのため玄関ドアは半開きのままだ。

 バルコニーの下は区立の児童公園である。矩形(くけい)の広場一杯に楕円を描けば、一周百五十メートルくらいのトラックが出来るだろう。人気(ひとけ)の絶えた黒ずんだ地面に、遊具や丈(たけ)の低い樹木が曖昧な影を落している。中央部に浅い噴水池があるが、彼はまだ一度も水の噴き上がる光景を見たことがない。

 公園を挟んでおよそ四十メートルの距離で対面する大きな建物は、「レオパレス」の十階建賃貸マンションで、この時間、上から下までまばらに点っている窓の明かりをランダムに繋げば、彼の知っている星座の一つが描けそうだった。そのうち風が通り抜け、空気もすっかり改まったと感じてガラス戸を閉め、玄関ドアにも鍵を掛けた。

文學界 9月号

2020年9月号 / 8月7日発売
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