「静かな雨」は宮下奈都のデビュー作である。そして、彼女のその後のめざましい活躍を予告し、約束する作品である。
──勤め先の会社が解散した日、淡い雪が降ってたちまち消えた。最寄駅のそば、パチンコ屋の裏の駐輪場から微かなやさしい匂いが流れて来て、〈僕〉は立ち止まる。たいやきを買って、歩きながら一口食べ、あ、と立ち止まり、引き返して、たいやきを焼いている女の子に「これ、おいしい」と。
翌朝、〈僕〉は重い気持で目を覚まして、ふと「遠くのほうに、何か、楽しいこと」があったような気がする。〈僕〉ははっと身を起こす。正体はあの「たいやき」だ。やたらおいしいたいやき、そして黒目がちのまっすぐな感じの女の子だ。
このように小説は始まるのだが、実はさりげなく、記憶と愛を巡る洞察に充ちたこの物語のモチーフが、優れた小説の例にもれず早くも冒頭の数ページの中で提示される。“おいしさ”と“たいやき”と“女の子”、そして慎重に隠され仄(ほの)めかされるのは、〈僕〉の歩行だ。〈僕〉の歩行が、上記の三つのモチーフを繋(つな)ぐ役目を果たす。
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