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隠し女小春

隠し女小春

文:辻原 登

文學界9月号

出典 : #文學界

「文學界 9月号」(文藝春秋 編)

 彼が西神田二丁目のこのマンションに住み始めたのは五年前で、三十四歳の時だった。その前は、勤務先に近い目白台の独身寮に十二年いて、管理人に「主(ぬし)」と呼ばれた。来年、不惑の年を迎えるが、未だに単身を通している。近年、結婚話は一向に回って来ないし、自ら婚活するつもりはないので、独り身の生活は今後も続いて行くかもしれない。大阪の衛星都市箕面(みのお)にいる父も長年のやもめ暮らしで、今年古稀を迎える。

 彼はキッチンシンクの背後に置かれた冷蔵庫からギネスの缶を取り出し、郵便物と夕刊をチェックして、ビールを飲み干すと、宮崎から取り寄せた黒木本店の芋焼酎「たちばな原酒」をオンザロックで飲み始める。

 カウチに腰掛け、テレビをつけた。丁度NHK・BS1のニュースが始まったばかりで、東京―金沢間を結ぶ北陸新幹線が今日、開業したことを伝えていた。所要時間は僅か二時間二十八分! 二〇二二年には福井の敦賀まで延伸する見通しだとアナウンサーが告げる。

 彼は二十代の半ばに、冬の能登半島を旅したことを思い出した。その時、上越新幹線を越後湯沢で「特急はくたか」に乗り換え、金沢まで四時間余り。そのスピードアップ振りに驚く。

 時計の針が十二時を回ったところで彼はテレビを消し、シャワーを浴びてパジャマに着替え、歯磨きなどして寝室に向かう。

 彼はベッドの右脇に置かれているフロアスタンドを点灯し、小春の手足の関節を伸ばして、着ているワンピースを脱がせ、パジャマに着替えさせて、ベッドマットの上で仰臥の姿勢を取らせた。

 彼女の体を乗り越えて、左側から覆い被さり、右手で太腿と尻を愛撫しながら、乳房に頬ずりする。

 彼女は、横浜市中区黄金町(こがねちょう)のギャラリーから配送された、等身大の“ラブドール”である。セックスの代用人形はかつて“ダッチワイフ”と呼ばれたが、現在、リアルで精巧に作られたダッチワイフは、ラブドールという呼称が一般的になっている。

 彼は文学部国文科の出身で卒論は近松、人形を「心中天の網島」のヒロインの名前で呼ぶことは、届く前から決めていた。

 

この続きは、「文學界」9月号に全文掲載されています。

文學界 9月号

2020年9月号 / 8月7日発売
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単行本
隠し女小春
辻原登

定価:1,760円(税込)発売日:2022年05月11日

電子書籍
隠し女小春
辻原登

発売日:2022年05月11日

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