二〇一八年に本書の単行本が刊行されたとき、日本国憲法制定の現場を描いた物語だと聞いて、政治色の強いアジテーションのような小説だったら嫌だなと思いながらページをめくったのを覚えている。改憲・護憲のいずれかに誘導するような話を中路啓太は書くまいという信頼こそあったが、議論そのものにややうんざりしていたというのが正直なところだったのだ。
ところが、読み出してまもなく、そんな心配は雲散霧消してしまった。本来、こういう言葉は解説の締めに使うものだが、同じような不安を持っている読者のために敢えて先に書いておく。あなたが改憲派か護憲派かには関係なく、あるいはそういったことにさほど興味がなかろうとも、ぜひ本書をお読みいただきたい。政治・歴史好きな人は言うに及ばず、ミステリやサスペンス、ひいては〈小説〉そのものが好きな人にも、本書は驚きと興奮を持って迎えられることと思う。
なぜか。
もちろん、テーマがテーマだけに政治の話であるのは当然だ。歴史小説であることも間違いない。だが本書はそれ以上に「言葉を巡る攻防の物語」だからである。
日本国憲法は昭和二十一年十一月三日に公布、翌年五月三日に施行された。
草案を作ったのはGHQだよね、だから「押し付けられた憲法」って言われるんだよね、というところまではなんとなく知っていても、その過程にどんな作業や駆け引きがあったのか、あまり具体的には知られていないのが実情ではないだろうか。
本書『ゴー・ホーム・クイックリー』は、日本国憲法ができるまでの〈現場の様子〉を、内閣法制局員の佐藤達夫を主人公にして描いたノンフィクション・ノベルである。
昭和二十一年。敗戦後の日本は民主国家として再スタートするため、憲法改正試案を連合国軍総司令部(GHQ)に提出した。しかしGHQはこれを却下。GHQ側が用意した草案をもとに新憲法案を作成するよう通達した。
渡された英語の原文と外務省の仮訳を「日本の法律らしい文章に」訳し直すことを命じられたのが佐藤達夫だ。期限はわずか二週間足らず。
本書の読みどころはまず、〈翻訳〉と〈駆け引き〉である。
GHQの英語の原文を、ありていに言えば、さも日本人が自分で作ったかのように訳さなければならない。なのにそこには、日本語の概念にない言葉、日本語にはない構文、そして日本人として受け入れがたい項目が山積みなのである。
ひとつ例を出そう。草案にあった前文は、日本国民が決意表明する形の文章になっている。だがそれまでの大日本帝国憲法は天皇自らが起草・制定したという体裁の〈欽定憲法〉であり、憲法改正は〈勅命ヲ以テ〉為されることが定められている。この矛盾をどう両立しろというのか。佐藤の上司である松本烝治大臣は前文を「削除してしまえばよい」とあっさり言うが、後に現場でGHQと交渉する羽目になる佐藤にとってはそんな簡単な問題ではないわけで、宮仕えの苦労、察するにあまりある。
実際、苦労の末に佐藤が訳したものをGHQの担当官が一言一句確認し、なぜこの訳語なのかと追及し、それに懸命に抵抗するくだりは、まるで剣の果し合いのようだ。
たとえば天皇の国事に関する行為について、GHQの草案では内閣のadviceとconsentが必要、とあった。そのまま訳せば助言と同意である。これを日本側は「輔弼」の一言にまとめた。君主を補佐するとか助けるといった意味の熟語だ。
GHQ側はconsent(同意)に対応する文言がない、と指摘する。そりゃそうだろう。だが日本側は同意という言葉を使いたくなかった。内閣が天皇に「同意」するなんて、まるで内閣の方が天皇より偉いみたいじゃないか――うわあ、そう考えるのか!
じゃあ同意じゃなくて協賛はどうだ、賛同はどうだ……ひとつの言葉に対し、その定義を調べ、使い方を調べ、前例を参照する。天皇を内閣の下に置きたいGHQと、あくまで天皇が至高だとする日本側の、言葉を武器にした斬り合いである。条文ひとつひとつ、言葉ひとつひとつにこういう戦いがあるのだから、エキサイティングこの上ない。
どの言葉を使うかで、意味も、受ける印象も大きく変わる。
それは憲法に限らないことが、本書の序盤でさりげなく示されている。憲法改正にあたって日本政府に作られたのは「憲法改正委員会」ではなく「憲法問題調査委員会」だった。そもそも改正に意欲的ではなかったことがわかる。本来なら統治局と訳されるはずのGHQのGovernment Sectionを外務省は「民政局」と訳した。敗戦は「終戦」、占領軍は「進駐軍」。敗戦後に占領軍が来た、と、終戦後に進駐軍が来た、では確かに印象が違う。言葉の持つ力がわかろうというものだ。
他にも、日本の法律文にするには芸術的すぎる表現があったり、象徴天皇という考え方に戸惑ったり、シビリアンの訳語に困ったりと読みどころは多いが、翻訳の問題について最もページが割かれているのが、戦争の放棄を謳った第九条についてである。
戦争をしないという決意に問題はない。軍備を持たないというのも、屈辱ではあるが敗戦国なのだから仕方ない。だが提示された「戦力を保持してはならない」という言い方は「何だか日本国民全体が他力で押さえつけられるような感じを受ける」「情けなさを感ずる」という意見が出る。誰かに禁止されるような表現ではなく、自ら「保持しない」と宣言する方が「心がすっとする」と言う。
意味は同じだ。それでも少しでも意地を見せたい。その思いを言葉に乗せる。
本書ではこの戦争の放棄の条文について、初訳からどのように変わっていったか、順を追って紹介している。そこに込められた思い。訳者の苦労。それだけでも充分読ませるのに、そこに外交上の思惑が入る。それがもうひとつの読みどころ、〈駆け引き〉だ。
日本のプライドを示すため、自主性と誇りを守るため、何度もその表現に手を入れられた憲法九条。だがそこに使われた言葉には、ある仕掛けがあった――というのが後半で明らかになる。ミステリの叙述トリックを地で行く展開に驚かされた。本書の白眉と言っていい。
これらの過程を、著者は決して一方に肩入れしたアジテーションにならぬよう、徹底して冷静な筆致で紡いでいる。膨大な資料を下敷きに(たとえば帰ってこない夫を心配して佐藤の妻・雅子が街で電話を探し回るエピソードは彼女の文章に残っているという)、ノンフィクションといってもいいくらいに事実を追っている。そこに佐藤達夫という日本とGHQの板挟みになった官僚の思いを綴ることで、彼らがこの憲法に込めた思いが浮かび上がってくるのだ。思いを込める、思いを伝えるという一点に於いて、本書がノンフィクションではなく小説として書かれた意義がある。
タイトルの「ゴー・ホーム・クイックリー」とは当時の吉田茂外務大臣(後に首相)の言葉で、GHQの頭文字にひっかけた洒落である。吉田は、とりあえずGHQの気に入るように作ってとっととお帰りいただき、占領から開放されてからあらためて国の形を整えればいいという立場だった。しかし、実際には新憲法施行後も占領は続き、国際情勢の変化もあって、日本国憲法は今にその姿をとどめている。
施行から七十年以上経った今、この憲法を考えるとき、そこに使われた文言にどんな意味があり、どんな思いが込められているのかを本書で知る意味はとても大きい。ラスト近くの白洲次郎の言葉に背筋が伸びる思いがしたのは、私だけではないはずだ。
これ以前は『獅子は死せず』『うつけの采配』『もののふ莫迦』(いずれも中公文庫)など熱い戦国小説で多くのファンを獲得していた中路啓太だが、二〇一六年刊行の『ロンドン狂瀾』(光文社文庫)を境に、昭和史に舵を切った。
本書の後、岸信介を描いた『ミネルヴァとマルス』(KADOKAWA)、『昭和天皇の声』(文藝春秋)を上梓。中路啓太が昭和という時代から何を汲み取ろうとしているのか、本書と併せてお読みいただきたい。