新保さんの字はどれにも当てはまらなかった。子どものような字なのではなく、大人が精いっぱい書いた字だから完成されている。それでいて、揉んでも叩いても絶対ほぐれない肩こりのように、年季の入っただめさが漂っている。僕に見せるつもりで丁寧に書いたことも裏目に出ていて、まったく筆勢ってもんがない。
ここまで死んだ字だとは……。
学歴と字に相関関係はないとはいえ、新保さんは名門の灘高→東大卒、以後ずっと出版界で働いてきた人だ。これがハンデになる。上手くて当然と思われがちなところに、この、空間把握能力を疑わざるを得ない字。著者に手紙を書く必要が生じたとき、新保さんはどんな気持ちで自分の字と向き合ってきたのか。想像すると爆笑、いや胸が痛む。
「どうでしょうか」
かける言葉が見つからず黙っていると、きれいに整えられた口髭を震わせながら新保さんが尋ねてきた。いい歳の大人が、自分の字は連載に耐えうるほど下手かどうかを問うのだ。僕は答えた。
「堂々たるものです。連載をよろしくお願いします」
このようにして始まった“乱筆乱文にて失礼いたします。”は『季刊レポ』の終刊号まで続く人気連載となった。それに大幅に加筆したのが本書である。ボリュームが増えた分、より詳細に新保さんの苦悩と挑戦が描かれ、“下手字界の金字塔”とも呼べる作品になっている。
同じく字が下手な人のどこがどうだめかを取材し、ペン字練習帳を買って修行し、書体の流行を調べる。
そのように目標を持って研究しているときの新保さんはいきいきしているものの、我が身を振り返る段階になるとたちまち凹み、そもそも自分はどんな字が書きたかったのかとくよくよ考える。上手くなりたいと思っていたはずなのに、愛嬌のある字、図形的な字といったつかみどころのない世界に惹かれる新保さん。真剣にやっているはずなのに、どんどんわけがわからなくなり、底なし沼にはまっていくのだ。
字も同じで、練習直後には明らかに上達するものの、手本に寄せているだけなので根本的解決には至らず、しばらくすると元に戻ってしまう。そのたびに読者は、「やっぱりか……」とため息をつくだろう。自分も悪筆に悩んでいるという動機で本書を手にした人ならなおさらだと思う。
でも、愚直なまでにノロく果てしない新保さんの歩みを追っていくうちに、考えが変わってくるかもしれない。
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