回想がもっと現在に近づくと
これまでの五編では、一貫した語り手である「僕」または「ぼく」は――それは作家本人と同一視は安易にはできないものの、村上春樹本人の特徴や伝記的事実を多分に備えている――過去を回想しながら次第に時代を下って、現在の作家に近づいてきたわけだが、「謝肉祭(Carnaval)」はもっと後の、比較的最近の時期を扱っている。「これまで僕が知り合った中でももっとも醜い女性」についての回想であると最初に宣言され、「僕」が五十歳を少し過ぎていたころ、クラシック音楽の共通の趣味を通じて親しくなった彼女との付き合いが回想される。彼女は「たぶん十歳」くらい年下で、二人ともシューマンの「謝肉祭」が大好きだということがわかって意気投合、しばしば一緒にコンサートに行き、「謝肉祭」のいくつもの演奏について熱烈に語り合う「同好会」のような付き合いが始まる。彼女の口を通じて語られる「謝肉祭」論は、それ自体が魅力的な音楽批評となっていて、この連作中、ジャズを論じた「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」と双璧であろう。
その先の彼女の数奇な運命についてはここでは触れないが、彼女との付き合いが突然断ち切られた後、「僕」は彼女とは関係のない、はるか昔のエピソードを「後日談」ならぬ「前日談」として紹介し、短篇を締めくくる。それは大学生のとき、友人に誘われて加わったダブルデートで知り合った「醜いとまでは言わないけれど、あまり容姿がぱっとしない女の子」の思い出である。「僕」は一度だけのデートの後に書いてもらった電話番号のメモを失くしてしまい、結局彼女とは二度と会うことがなかった。「それらは僕の些細な人生の中で起こった、一対のささやかな出来事に過ぎない。今となってみれば、ちょっとした寄り道のようなエピソードだ。もしそんなことが起こらなかったとしても、僕の人生は今ここにあるものとたぶんほとんど変わりなかっただろう。しかしそれらの記憶はあるとき、おそらくは遠く長い通路を抜けて、僕のもとを訪れる。そして僕の心を不思議なほどの強さで揺さぶることになる」というのが、小説の締めくくりでもあり、「僕」の人生を織り成してきたささやかな出来事についての総括になっている。
七番目の「品川猿の告白」は、これまでの六作とは明らかに違って、非現実的な空想の要素が強い、ファンタジー的作品になっている。前六作の場合、合理的に説明できない謎めいたことが起こるのも稀ではないが、そういった謎を内包しながらもいちおう「リアリズム小説」の枠内に収まっている。しかし、「品川猿の告白」は、「僕」が群馬県のM*温泉宿で五年前に出会った、人間の言葉を完璧に話す猿を主人公とした物語であり、「回想=告白モード」の語りの主体はここでは「僕」から「猿」に移る(なお村上春樹にはこれに先立って「品川猿」という作品があり(二〇〇五年の短篇集『東京奇譚集』所収)、内容を見ると、猿のプロフィールが微妙に違っているが、今回の「品川猿の告白」は先行作品の枠組みをほぼ受け継いでいる)。リアリスティックな短篇連作の中に、このように明らかに毛色の違う、ファンタジー的ないしはおとぎ話的な作品が混じるという構成は、『神の子どもたちはみな踊る』(二〇〇〇年)を思わせる。こちらでも全六作のうち、後ろから二番目に置かれた「かえるくん、東京を救う」が「品川猿の告白」と同様の位置を占めているからだ。
「品川猿の告白」では、猿はこんな風に説明する――自分は人間に飼われて育ったため、人間の女にしか「恋情」を抱けなくなった。しかし猿である以上、当然、自分の恋情を普通に満たすことはできないので、代わりに好きになった女性の名前を「盗む」ようになった、と。ここでは愛という行為そのものよりも、「記憶」の重要性が強調される。猿はこう言う。「私は考えるのですが、愛というのは、我々がこうして生き続けていくために欠かすことのできない燃料であります。(……)その愛はいつか終わるかもしれません。あるいはうまく結実しないかもしれません。しかしたとえ愛は消えても、愛がかなわなくても、自分が誰かを愛した、誰かに恋したという記憶をそのまま抱き続けることはできます。それもまた、我々にとっての貴重な熱源となります」
この作品には、また、あり得ないような空想的な話を自ら作りながら、それにどんな意味があるのか、自問するという、フィクションそのものの意味を問い返すような側面も含まれている。「僕」は、「いったいどのような形式でそれを語ればいいのか、見当もつかなかった」と認め、「この話のテーマはいったい何なのでしょう?」みたいなことを訊かれても、「そんなものはどこにも見当たらない」「そんな話のどこにテーマがあり、教訓があるだろう?」と、いわば開き直るのである。読者が自伝的回想を教訓めいた回顧談の次元に落とさないための、メタフィクション的な警告と言うべきものだろう。
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