リンゴの国の不器用な男
さて、その盛岡を舞台にした『雲を紡ぐ』は、祖父、息子、孫をめぐる三代の物語だ。ホームスパンという毛織物の工房を営む盛岡の祖父のもとに、東京で暮らす高校二年生の孫娘が家出をしてきたところから物語は動き出す。紘治郎という名前の祖父は、ある事情から息子と疎遠になり、孫の美緒とは長い間会っていない。
赤子の頃にしか会ったことがない孫が高校生になり、ひどく思い詰めた顔で目の前に現れたら、誰もが戸惑うのではないだろうか。しかも孫の美緒の声は祖母の声、紘治郎の妻の声に似ているのだ。
この祖父の紘治郎という人物は、仕事仲間や友人には過不足なく話をするが、身内には口が重いという設定だ。そうした事情から妻子とは、あまり心の交流が持てずにきた。
その後悔があり、また、孫の美緒が繊細な性格であることに気付いてから、紘治郎は自分の考えていることを美緒にはなるべく伝える。ところが、二人が最初に出会ったとき、紘治郎はまだ無愛想な男で、美緒はそんな祖父におびえている。紘治郎はすぐにそれに気付くが、どう対応したらいいのかわからない。二人の関係はぎくしゃくしたままだ。
そうしたなかで紘治郎が、初対面の美緒に飲みものを出そうとする。彼は何を出すのだろうと思ったところで、書く手が止まった。
お茶だろうか。ホームスパンという英国由来の布をつくっている人だから紅茶だろうか。いや、盛岡にはコーヒー豆の自家焙煎をする喫茶店が多い。紘治郎の家にはお気に入りの店の美味なコーヒー豆があるはずだ。それならコーヒーだろうか。
そう考えたとき、盛岡で飲んだ温かいリンゴジュースのことを思い出した。
きっと紘治郎もリンゴが好きだ。歯が弱りだした彼は、冷蔵庫にリンゴのジュースを常備しているに違いない。もしかしたら、遠い昔、彼の妻もジュースを温めて飲んでいたかもしれない。なによりも、とろりと甘くておいしいホットのリンゴジュースは、冷えた身体を温めてくれる。緊張している孫の気持ちもほぐしてくれそうだ。
私が迷ったように、おそらく小説のなかの紘治郎も迷い、そして冷蔵庫に常備している飲みもののことを思い出すだろう。
そのとたん、再び手が動き始めた。そして二人の出会いの場面に、ホットのリンゴジュースが登場した。
そのとき、美緒は自分のことに手一杯だ。祖父がなぜ、お茶でもコーヒーでもなく、熱いジュースを出したのか考えがまったく及ばない。
しかし、いつか彼女が大人になったとき、気付くだろう。
あのとき祖父が差し出した温かいリンゴジュースは、リンゴの国の不器用な男の、精一杯の歓迎の印だったということに。
(月刊JA11月号掲載)
いぶきゆき 一九六九年三重県生まれ。二〇〇八年『風待ちのひと』でポプラ社小説大賞特別賞を受賞しデビュー。著書に『四十九日のレシピ』『ミッドナイト・バス』『彼方の友へ』等。最新刊は『犬がいた季節』。
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