世界にひとり置いてゆかれたさびしさでした。十歳の私は勇を鼓してまっすぐに手を挙げました。何故、ひっくり返すのか、「分数の割り算」の謎にむかってまっすぐ手を挙げました。目立たぬボンクラの私の挙手です。先生を眩しく見つめて私は問うた。「なぜひっくり返すのですか」。
先生の表情は、「ナニ」と途端に曇りました。そして仰ったひと言が「いいから、ひっくり返して掛けなさい」。私はどうやら先生を不機嫌にしたようで、周りのクラスメイトから「バカチン」の謗りの呟きがいくつも聞こえてきました。
間違いなく、それは判ったふりをしなければ世間に波風が立つことを教えてくれた世渡りのコツ。私の少年期の終わりでした。
あれからいくつもいくつも判らぬことをそのままに生きて来まして、私の場合、青年期、TVドラマで「先生」を演じることもあり、判ったふりが仕事にもなりました。しかし、「先生」はつまらないのです。アルキメデスの「ユリイカ」の痛快がありません。そこで「天命を知る」五十にして、知ったかぶりを止めて、心に刺さった判らぬことをノートに摘み出し、記録してゆくことを習慣にしました。ノートに置いた一問目は当然ながら、小四のあの問い。「分数の掛け算と割り算」です。これは娘の算数の副読本にズバリの答えを見つけました。副読本はやさしく教えてくれました。先ず「掛け算」とは何か、「2×2」は「2」をもうひとつ並べて、全体では「4」になるということ。だから、「2×
」なら「
」で「1」。ふたつあるものの半分は「1」。掛け算はいつも「全体は?」と聞いている式で、膨らむ時も縮む時もある。
1 | |
2 |
2×1 | |
1×2 |
では「割り算」は何を聞いているのか。これは「何人で分けられるか」を聞いている。だから簡単にビスケットを半分に割ると……二人に分けられる。式にすれば「1÷
」で、ここでは割る方をひっくり返して掛ける「
」という式にすれば答えは「2」になるわけです。「ユリイカ」です。判らぬことに遭遇したら、判るところまで引き返すこと。そして答えを見つけるためには何が問われているのか、を問うこと。
1 | |
2 |
1×2 | |
1×1 |
先ず「問い」を探し出す。たかが「分数の掛け算と割り算」の解き方に何やら物事を考える「極意」を見つけたようで初めての「ユリイカ」は痛快でした。
さて、そこから判らぬことをノートに取り続けています。
判らぬことはその後も降り積もり、十冊目の大学ノートを最近、通過。加齢と共に人生の下り道は自然と開けて、見晴らしのよいものになるとの目論みは外れて己の頭の悪さを痛感する老いの峠道です。
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