玲菜はそう明言します。そして秋吉さんと周東さんが玲菜に「ここにいて欲しい」と望む気持ちが自分のそれと重なったと感じた玲菜は、はじめて涙を流すのです。彼女はきっと、ずっと人前では泣かなかった。いや、泣かなかったのではなくて、泣けなかったのでしょう。ここでついに抑えていた感情を解き放つことができたのです。やっとここまで到達したのだと思うと、わたしも一緒に泣けて仕方がありませんでした。
もしもわたしが玲菜と同じような境遇で育っていたとしたら、きっと同じように感情を押し殺して過ごしていたのではないかと思っています。さみしさも孤独も何もかも玲菜とは違うけれど、子役時代から仕事を始めていたという職業柄、わたしも早めに大人にならなければならない立場ではありました。自分の意見、意思なんて、最近まで他人に伝えてこなかった。大人が相手だったから基本的には相手にされなかったし、じぶんが何かを言ったところで何も変わらないのだろうと感じていました。こどものふりをしていた方が楽だったのです。
それが二十歳を過ぎて、意見を求められるようになってきました。「あ、自分なんかの意見でも聞きたいって思ってくれる人がいるのか、尊重してくれる人がいるのか」と気づき、玲菜同様に出会いにも恵まれました。今の事務所のスタッフ、現場でご一緒させていただく先輩方のおかげで、きっと自分に嘘をつかなくなったし、可能な限り自分が自分のままでいられるようになった。きっと玲菜も、「ああ自分は今、受け入れてもらえてる」と確かに感じながら、ふたりに心を開くことができるようになっていったのではないだろうかと想像します。川越屋のふたりに出会えて、本当によかった!
玲菜が涙した場面に関係して、もうひとつ印象深いくだりがあります。秋吉さんのリクエストでホルモン鍋をつくろうとした玲菜ですが、ホルモン=モツだと知らず、準備に四苦八苦します。そして最終的に至った結論が「水炊きでもすき焼きでもモツ鍋でも、本来はどうでもいいこと。そういうどうでもいいことに迷っていられる今の自分を、玲菜は幸せだと思う」。
常に冷静に、「仕方ないことは仕方ない」と諦めながら誰にも迷惑をかけないように生きてきた玲菜が、そこから抜け出した瞬間です。自分の人生に大きくかかわること以外のことを考えられる時間がようやく玲菜にも訪れたのだと、グッときました。きっと多くの人々が日常生活でボーッと考えるようなことを、この子は今まで考えることができなかった。「今日の夜ご飯なににしようかな」と思えるようになっただけでうれしくて仕方なかった。しかもちゃんと、それが幸せだと自分でも認識できたということが重要です。ようやく自分の人生の真ん中に立って、幸せをかみしめたり、こうしたいと伝えられるようになった玲菜のことを、一層愛しく感じます。
さいごにひとつだけ、どうしても悔やまれることがあります。この作品は絶対に映画化されるべきだと思うのですが、わたしにはさすがにもう十四歳を演じるのは無理があるということ。あと数年早ければ、周東さんがやたら玲菜のそれを褒めている、鼻を整形してでも演じたかったです(笑)。または寝かせて寝かせて、礼子さんを演じることのできる年になった時に、礼子さんを演じたい!
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