『鵜頭川村事件』(櫛木 理宇)

■昭和五十四年、事件は起きた。


 人口約九百人の鵜頭川村は、折からの長雨のなか、県全域を襲った水害によって数日間孤立した。その孤立のなか、死者が出た。それも一人ではなく、複数の……。

 昭和五十四年六月、X県北神洞郡鵜頭川村における出来事である。


■平成三十年、事件は描かれた。


 読み応えのある小説である。

『鵜頭川村事件』のストーリーは、前述のように雨による土砂崩れで孤立した村の数日間を描くという、実にシンプルなものである。しかしながら、物語としては実に豊かだ。綴られる村の人々の存在感は際立っており、また、老若男女問わず、彼等の心の動きが繊細に語られている。それぞれに一人の人間として読者の前で“生きている”のだ。

 彼等は語る。食べる。飲む。眠る。怒る。怯える。そして、変化する。

 その様が、極めてナチュラルに──好感も嫌悪感もひっくるめて──読み手の胸にしみこんでくるのだ。その一人ひとりの生々しさがまずは本書の特徴であり魅力なのだが、この小説に描かれているのは、それだけではない。

 著者は、そうした一人ひとりの集合体である鵜頭川村全体も、同等の重さで描いているのだ。本書に登場する一人ひとりの思考や言動が、やがて、村を呑み込む大きなうねりとなっていく様子を、そう、櫛木理宇は丹念に、しかも冷静な計算の上で描いているのである。誰と誰が共鳴し、誰と誰が衝突するのか。約九百人/三百世帯のコミュニティに如何にしてうねりが生じ、そしてそのうねりはコミュニティを如何に変化させるのか。それらが躍動感たっぷりに描かれているのである。おそらく、著者の意識のなかで、村は決して背景ではないのだろう。むしろ、村こそを主役と位置付けているのではないかとさえ思ってしまう。それほどの存在感を、鵜頭川村は放っているのだ。

 人と村。

 個と全体。

 その両者が極めてハイレベルで造形され、お互いに不可欠な存在として物語を構成している。しかもそれらが設計図のまま提示されるのではなく、血肉を備えた人間もしくはその集合として読者の目の前に登場し、心の奥に語りかけてくるのだ。それが本書『鵜頭川村事件』であり、本書の読み応えの本質なのである。

 という具合にいささか抽象度高く『鵜頭川村事件』について語ってきたが、もう少し具体的に紹介するとしよう。

 本書で主人公を務めるのは、岩森明二十九歳。妻である節子を病で亡くし、現在は娘の愛子と二人で暮らしている。昭和五十四年六月、岩森は妻の墓参りのために、彼女の故郷である鵜頭川村を娘とともに訪ねた。当初は一泊の予定だったが、土砂崩れで孤立した村に封じ込められることになった……。

 なんとも絶妙な主人公設定だ。妻は鵜頭川村の出身者であるが、岩森本人はそうではない。一時は妻とともに鵜頭川村で暮らし、そこから県庁所在地の職場まで車で通ったこともあるが、現在では村の外で暮らす“よそ者”だ。それ故に、彼は傍観者として冷静に村の人々を観察できるし、また、元村民としてのセンスで、全くのよそ者よりはずっと敏感に村の人々の空気を読むことができる。個と全体を語る人物として、まさに最適なのである。

 この立ち位置から岩森が観察し、感じるのは、村内における対立構造の変化である。

 約三百世帯の鵜頭川村において、矢萩の姓はおよそ一割を占める。矢萩一族は、昭和二十年代に農地を手放し、村長一族の会社の下請けとなる建設会社を興して成功し、この三十年間、村民たちの雇用主として支配的な立場を維持してきた。この基本的な村の構造が近年、揺らぎ始めていたのである。それを象徴するのが、矢萩一族が推進する道路拡張工事だった。着工はしたものの、村の全世帯の四割を占める降谷家の人々が反対に回り、その勢力は、次の選挙で再選を狙う村長も無視できないものとなっていた。また、昭和五十一年に田中角栄元首相が逮捕されたロッキード事件によって、村の人々の賄賂に対する意識が変化したことも、従来型の支配関係の維持を困難にしていた。つまり、村の勢力関係は、まさに変化の際にあったのである。そんな状況での長雨であり、土砂災害であった。矢萩家が推進していた道路拡張工事による木の伐採が土砂災害を加速させ、村の孤立を招いたことから、矢萩家の旗色はさらに悪化し、そしてそのまま矢萩も降谷もみな封じ込められてしまったのだ。爆ぜるのに十分なエネルギーを蓄えたまま、密閉容器のなかにガスを詰め込んだようなものである。

 この容器のなかで、さらに新たに対立構造が生じた(表面化した)ことに岩森は気づく。若者と年長者の対立である。村が封じ込められる直前に発生したと思われる殺人事件の被害者が若者であったこと、犯人と思われる人物に関する年長者たちの甘過ぎる処遇などを引き金として、オレたちと非オレたちという対立構造が先鋭化していくのだ。それも熱狂的に。

 こうした対立は連鎖し、次なる対立を生んでいく。男女の対立である。なにしろ昭和の時代の閉鎖的な村のことだ。男女平等などとは無縁の人間関係が生活の基盤にあった。それはそれで(現代の視点から見ると問題が多々ある歪なものではあれど)安定していたのだが、支配関係が揺らぎ、村が孤立してしまって日々の生活に揺らぎが生じると、現状/現実をどう受け止めるかで男女の差が顕著になってくる。一人また一人と、現実を重視した女性たちが、古い価値観に縛られたままの(縋ったままの)男性たちを尻目に、それまでとは異なる行動を開始するのだ。

 かくして、この密閉された鵜頭川村のなかで、従来は村を牛耳っていた年長の男性たちと、その支配から逃れるべく行動を起こした若者や女性が火花を散らすことになるのである。いつ大爆発を起こすともしれぬ火花を……。

 この強烈なサスペンスの一部に、著者は岩森明を巧みに組み込んでいる。彼もやはりこの密閉環境の一部であり、事態が進展するにつれ、傍観者ではいられなくなるのだ。娘の愛子がこの対立構造に巻き込まれてしまうのである。結果として、彼もまた当事者として行動しなければならなくなるのだ。つまり『鵜頭川村事件』という小説の後半では、彼は状況の語り手であると同時に、まさに正真正銘の主人公として行動することになり、読者は加速度的に感情移入して“自分の物語”として本書を読み進むことになる。実に巧みに造られた小説なのである。

 小説の造りが巧みなだけではなく、不快感を読者に体験させる書き方もまた、巧みだ。例えば長雨。これを丁寧に書くことで、読み手の心には、それこそ皮膚感覚として湿気を伴った不快感が徐々に蓄積されていくことになる。さらに、いらつかせる音もある。目上の酔漢が岩森に言葉で絡むなか、テーブルをとんとんとんとんと指で叩く。とんとんとんとん。これが繰り返されるのだ。岩森のいらつく心を、説明されずとも読者は感じるだろう。聴覚と視覚で。しかも酔漢はニコチンと酒の匂いも振りまいており、嗅覚からも不快感は侵入してくる。なんたる責めだ。さらに、職場の同僚が岩森に重い荷物を村に持って行くよう強制したことも、それを断れなかったという負い目も手伝って岩森を苛つかせ、読者を苛つかせる。櫛木理宇は、読者の五感に、あるいは心に様々な手法で働きかけて、雨の降りしきる鵜頭川村や、そこに暮らす人々を体感させるのだ。物語の後半では斧が腕に食い込む場面や肩の肉を削ぐ描写もあり、痛みをそれこそ“痛感”させられる(ちなみに本書は「別冊文藝春秋」連載時は斧を意味する「AX」というタイトルであった)。この描写力と、前述の物語構造が、本書では両立しているのだから堪らない。読み手としては、不快感すらもはや快感なのである。

 さらにいえば、そうした村と人々の物語を邪魔しないかたちで、殺人事件を巡るストーリーも織り込まれている。誰が何故彼を殺したのか。その動機を含め、ミステリとして愉しめる仕掛けも施されているのだ。これまた見事なお手並みである。

 そのうえで、だ。櫛木理宇は客観的な視座を失っていないし、また、読者にもそうした冷静さを要請している。各章の冒頭には、新聞記事やWikipediaなどからの引用というスタイルの文章が、一~二ページほど置かれている。ここで著者は、読者を現在に引き戻し、村での出来事を客観的に意識させるのである。これは同時に、従来型の価値観が破壊され、人が斧を振るい、死者すらも出ている騒動が、村の外からはどう見られているかを認識する行為でもある。新聞記事やWikipediaの文体で淡々と記された文章は、村の内外の温度差を強調し、村の人々の争いを愚かな内輪もめという“小さな出来事”にさえ見せてしまう。著者は、登場人物たちに対してなんと冷酷であることか。しかしながらこの冷酷さは、読み手にリアルを強く感じさせる効果も持っている。そうしたクールさに加えて、櫛木理宇の筆力である。客観的記述でたしかに我に返りはするのだが、そこから再び鵜頭川村の内部の記述に戻り、数ページも読み進めば、読み手はまたどっぷりと村のなかに入り込んで、対立の熱や雨や酔いの不快感に全身全霊で囚われることになるのである。

 冷静と熱狂をコントロールする櫛木理宇の手腕は、さながら卓越した刀鍛冶のよう。炎と水で刀を鍛え、その刀で読者の心を貫き通すのである。


■令和X年、事件は映像化される。


 櫛木理宇は、二〇一二年に『ホーンテッド・キャンパス』で第十九回日本ホラー小説大賞読者賞を受賞してデビューした。彼女は、その賞の結果が出る前にも小説を書き、別の賞に応募していた。その『赤と白』も第二十五回小説すばる新人賞を獲得。櫛木理宇は、二つの新人賞を獲得した作家として記憶されることになったのである。

 キャラクター重視の青春ホラー小説である『ホーンテッド・キャンパス』はその後シリーズ化され、本稿を執筆している二〇二〇年現在、第十七作まで続いている。百四十万部とも百六十万部ともいわれるほどの人気シリーズで、本書とはだいぶテイストの異なる作品だが、櫛木理宇の重要な柱の一つである。本書の読者にも読んでみて戴きたい。時折ぞくりとする恐怖を味わえたりもして、なかなかに満足度は高い。このシリーズは、作中の時間の流れからしてもまだまだ続きそうだが、著者本人としては、シリーズの締めくくり方は考えているそうだ。

 櫛木理宇は、『赤と白』の舞台に降る重い雪を指して、“イライラさせる用小道具”と述べている。本書における雨もそうであり、『避雷針の夏』(一四年)で描かれる不快指数が九十以上にも及ぶ蒸し暑さもそうだ。作家活動の初期段階から、櫛木理宇は“不快を体感させること”を得意としていたのである。著者はその後、その技術を読み手に生理的嫌悪感を催させる書きっぷりとして磨き上げてきた。『侵蝕 壊される家族の記録』(一四年の『寄居虫女』を一六年の文庫化の際に改題)では家族の間に侵入してくる嫌な人を描き、少女がリンチで殺される『少女葬』(一六年の『FEED』を一九年の文庫化に際して改題)では、シェアハウスに暮らす人々を通して嫌な心を描いた。『虜囚の犬』(二〇年)は、唾棄すべき誘拐監禁事件を描いたが、この作品に関しては、著者として読者層を意識して『ホーンテッド・キャンパス』で培った技法を利用し、陰惨さが読み手の心に与える影響を和らげたという。そうした匙加減もできる作家なのだ。本書でその才能を体感した方は、他のノンシリーズ作品に手を伸ばしてみると、嬉しいことに、かなりの確率でイライラや不快感/嫌悪感を愉しむことができるだろう。

 こうした描写を得意とする櫛木理宇だが、もちろんそれだけを書きたいわけではない(愉しんで書いているのは事実らしいが)。彼女は犯罪に至る社会的心理に興味を持っており、書きたいのは“犯罪という形で結実したそれぞれの社会病理”なのだそうだ。そして、自分の小説のなかでその社会の病理が最も濃厚に出た一冊が、本書『鵜頭川村事件』なのだという。さらに、『鵜頭川村事件』には、幼いころに雑誌で見た連合赤軍リンチ事件の死体写真の記憶や、その後、連合赤軍メンバーが“総括”という名の大量殺人を経てあさま山荘事件へと到る様を描いた高木彬光の『神曲地獄篇』から受けた衝撃が影響しているとも語っている。そうした社会病理、あるいは連合赤軍事件を意識して本書を読むと、また一つ、味わいが深くなるだろう。お試しあれ。

 最後に朗報を一つ。『鵜頭川村事件』はドラマ化が進んでいるのだという。この濃密な物語がいったいどんな映像になり、映像ならではの手法を如何に用いて不快感を募らせてくれるかと考えると、怖いもの見たさのワクワクが募る。ちなみに櫛木作品の映像化としては、過去には、『ホーンテッド・キャンパス』(一六年)があったが、『鵜頭川村事件』に加え、『死刑にいたる病』(一五年の『チェインドッグ』を一七年の文庫化に際して改題)の映画化も進行しているそうだ。二十四件の殺人の疑いで逮捕され、九件について立件された死刑囚が、そのうち一件だけについては冤罪を主張しているというミステリであり、小説としての魅力がどう映像化されるか、こちらも愉しみである。

 今日の日本は、感染症によって従来の価値観や生活様式を否応なしに変えていかねばならない状況に置かれている。人も社会も、変化しなければならないのだ。そんな折だからこそ、二〇一八年の親本刊行時よりもさらに、鵜頭川村の物語は読み手の心に強く響くだろう。

 令和二年、事件は読まれる。