「飼う人」。読者は本書に何を期待して手に取ったのであろう。これだけの手がかりでは、まったく異なる二つの方向の物語を想像するのではないだろうか。一つは、「コレクター」と総称されるような、若い女性を拉致監禁する系の、かなりやばい話。もう一つは、犬や猫など、標準的な愛玩動物を飼育する人々の、動物との結びつきを描く話。単行本の表紙絵を見ると、どちらとも言い難い。私はてっきり後者の話かと思い、本書の解説を引き受けてしまった。
ところが困ったことに、この本は、そのどちらでもない。いや、どちらの要素も少しずつ含んでいるのかも知れない。そしてさらに、この本にはこの本独自の「飼う」ことに関する心象風景が描かれているのだ。それは、飼育するものと飼育されるものとの間に通常ある主従・独占・責任・甘え・依存といった関係では全く測定できないものだった。
なにしろ、ここで「飼われる」のは犬でも猫でもない。イボタガ(の幼虫)、ウーパールーパー、イエアメガエル、ツマグロヒョウモン(の幼虫から成虫)など、あまりなじみのない生き物たちである。これらは愛玩動物として通常飼育される哺乳類でも鳥類でもなく、昆虫と両生類である。昆虫と両生類が愛玩動物とならないとは言わないし、私だってマレーハコガメという爬虫類を飼っている。
だが、この本における飼い方は、愛玩動物としてのそれではない。これらの生き物は、あるいは、飼う人の心の傷口に入り込み、それを埋めるのではなく、それをさらに広げようとする存在である。あるいは、飼い主の来し方行く末を映しとり、絶望と希望と平穏を与える存在である。またあるいは、飼う人自身が飼われているのは自分であることに気づいてしまう。そういうところに注意しながら、一話ずつ紹介していこう。
「イボタガ」。「カーテンを閉めて寝ると朝起きづらいから、平日はカーテンを閉めないようにしよう」と言う夫。それなのに食卓に着くと同時にテレビをつける夫。妻は妻で、夫に合わせてできたての料理を用意する。家族には子どもがいることをお互いに前提として結婚したが、10年ののち、子どもはまだいない。それなりの恋愛を経て結ばれたわけだが、子どもがいないことが、二人が思い描いていた人生計画を大きくゆがめている。そこに現れたイボタガの四齢幼虫。
二人とも、日々の暮らしに美意識を持ち、共有しようとしながら押し付けあっている。仕事に生きがいを求め、ゆっくりと挫折し、職場結婚した夫婦は、それぞれに描く家庭のイメージから逸れていくことに苛立っている。
イボタガの幼虫は、夫婦の裂け目に入り込み、だんだんと成長して蛹になる。妻はイボタガに行き場のない愛を向けてゆく。イボタガが羽化するとき、何が起こるのか。背景に流れるテレビの音が、読者も巻き込んで苛立ちを限度まで高める。