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飼うことは自分を見つめること

飼うことは自分を見つめること

文:岡ノ谷 一夫 (動物行動学者・東京大学教授)

『飼う人』(柳 美里)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #小説

『飼う人』(柳 美里)

「ツマグロヒョウモン」。イモムシを飼う男の話。男がイモムシを飼うようになったのは、妻に去られてからである。妻は小さな出来事をきっかけに、男を捨てた。それは男にとっては小さな出来事でも、妻にとっては生活する力を奪い取る符丁であったのだ。男がイモムシを飼い始めたのは、この符丁を理解したかったからなのかも知れない。

 男は夢と現の中で妻との日々を再生し続ける。その中で、男は妻が感じていた不安を追体験する。愛し合って結婚したはずなのに、なぜ妻が心を閉じていったのか、少しずつ気づいてゆく。イモムシが蛹化し、羽化するのと並行して。読者は最後にこの物語を読むことで、この短編集全体の円環構造に気づくであろう。その円環構造の中で、読者は自己であることと他者であることの関連が怪しくなっていく経験をするはずだ。

 

 私は第一話から不快感と無常観を、第二話から絶望感とあきらめを、第三話からかすかな希望と平穏を、第四話から相互理解の不可能さとそれでも他者と生きてゆくことの喜びを感じた。よくある動物感動物語とは全く違う読後感が本書にはある。

 どのような生き物であれ、飼うことは自分を見つめることである。どのような生き物であれ、愛することは可能だ。人間の過剰な共感力は、それをまっすぐに受け止める対象を必要とする。しかしここで描かれる生き物たちは、飼い主の共感力をまっすぐ受け止めはしない。ある時は飼い主の心の裂け目に潜りこみ、ある時は飼い主の身代わりとなって水中に潜み、ある時は飼い主に人生そのものを教え込む。

 生き物を鏡として、私たちは、生きること自体の崇高さと、生きることがそもそも孕んでいる不条理さを知る。生き物を鏡として、私たちは自分の生命の軽さを学ぶ。その軽さは、時として生きることの重さを受け止めるのを助けてくれるし、時として生きることのくだらなさを強調してしまう。ここに登場する生き物は、私たちの生を感じるための触媒なのだ。

 本書には、これら「飼われる」生き物たちの写真やイラストは含まれていない。それは本を作る側の見識であると思う。読者は物語に浸りながらこれら生き物たちの姿を想像してほしい。そして読了後、これらの生き物を画像検索してみるとよい。読者の想像と実物とのずれを味わってほしい。

文春文庫
飼う人
柳美里

定価:924円(税込)発売日:2021年01月04日

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