実家の空き部屋は、いまはもうない。
五年前、実家と土地を処分することになった。建ててから半世紀以上の母屋と離れの解体にともなって、大学に進んで以来ずっとそのままになっていたかつての私の部屋も宙に消えた。
九十近い父が心臓や肺の疾患がもとで倒れ、病院のICUに運ばれて入院生活を送ったのち、市内の介護施設に住まいを移して生活することになったのはその一年ほど前である。ひとり暮らしを余儀なくされた母にとって、がらんとした一軒家に暮らす不安や寂しさがふくらんでいるのは誰の目にも明らかだった。廊下を通って洗面所やトイレに行くのにもそれなりの歩数がいるし、洗濯物を干すには、居間から出て濡れ縁、靴脱ぎの石台、二つの段差を踏んで庭に出なければならない。年々歳々、生活の細部に厄介さがまとわりついてゆくなか、老いた両親がふたりで家事を分担し、おたがいに支え合うことでどうにか日常が成立していた現実に直面し、私はうろたえた。しかし、父がふたたび家に戻ってくる可能性はきわめて薄いことを、父自身も家族もみんなわかっていた。
タイミングを逃したら手遅れになってしまうかもしれない。さんざん悩んだすえ、おずおずと、しかし娘としての決意をもって、まず母に提言した。
「そろそろ住まいを小さくして、もっと動きやすくて生活しやすいところに移ったほうがいいと思うのだけれど、どうかしら。みんなこの家に愛着があるから、決断するには時間がかかるかもしれないけれど」
母の反応が予測できないまま、水を向けた。場合によっては説得しなくてはならないかもと身構えていたのだが、意に反して、母の返事はあっさりとしたものだった。
「そうしようか」
ただし、拍子抜けする淡々とした表情とうらはらに語られる言葉には、うっすらとした後悔や苛立ちの翳が複雑に混じっており、わたしを狼狽させた。はじめて聞く話ばかりだった。父と母は、ずいぶん前から一軒家からマンションへの引っ越しを話し合っていたこと。そのために、建物と土地の売却を考えていたこと。しかし、母によれば、「何度か話が進みかけたけれど、お父さんが決め切れなかった」。何年もかけて土地の売却相手を探していたが、つぎの段階に進もうというときになって父が二の足を踏み、そのたびに話が立ち消えになったのだという。父にしてみれば、よりよい条件を求めた結果でもあったと思う。しかし、「決め切れなかった」という言葉に、母の胸の奥にちくりと刺さったままの棘が感じられた。
相づちを打ちながら耳を傾けていると、母がつぶやいた。
「けっきょく、お父さんは自分で買ったこの家に愛着があったし、未練があったから、自分では手放せなかった」
その父の半生が詰まった家をわたしは処分しようとしているのだから、もう何も言えなかった。やっぱり残しておいて欲しいと父は言うだろうか、それとも許してくれるだろうか。ぐらつく気持ちのまま天井を眺めていると、母が言う。
「面倒な役目を負わせて申し訳ないけれど、でも、お父さんはほっとすると思うよ」
本当にほっとしてくれるのかな、お父さんは。すこし救われた気持ちになりながら、視界にちらちら入ってくる柱の傷やら天井の染みが痛さを抱えたなまなましい生命体みたいに動きはじめる。自分が六歳から十八歳まで暮らした家に肩入れする感情を、このときほど強く抱いたことはなかった。
五十年以上も前の忘れられない記憶が、なぜか飛来した。