「結婚しよう」
その言葉を聞いた瞬間、世界が一瞬で遠のいた。喜びが身体の奥底から噴き出し、内側から滲む熱が頬を赤く染める。滲んだ視界を誤魔化すように佳奈は目元を拭った。亮はわかりやすく狼狽えた。
「ごめん、プロポーズはもっとちゃんとしたとこがいいよな」
「違うの。嬉しくて」
薬指に指輪をつけたまま、佳奈は亮の腕に軽く手を置いた。
「私、ずっと亮と一緒にいたい」
「俺も」
伸びて来た腕が、佳奈の身体を抱き締める。亮の体温に包み込まれ、佳奈はそのまま目を閉じた。幸せだった。自分の人生は、この瞬間の為にあるのだと思った。
亮の腕が、佳奈の身体からそっと離れる。少しだけ乾燥した彼の指先が、名残惜しそうに佳奈の頬を静かに撫でた。
「俺、佳奈が好きだ」
屈託のない『好き』の二文字はくすぐったい。熱くなる自身の頬を手の甲で押さえ、佳奈はくすくすと笑った。
「本当に今日は素直だね」
「素直になるべきだったって、後悔してるから」
「何か後悔してることがあるの?」
佳奈の問いに、亮は困ったように眉尻を下げるだけだった。彼の指が佳奈の左手の柔らかな側面に触れ、それからそっと指輪を引き抜く。
「二人で、一緒に」
「うん」
亮の手が、そのまま佳奈の手を握り締める。お互いの五つの指が交差して、手のひら同士が密着する。
「さ、早くここを出よう」
アンティーク調のドアノブに手を掛け、亮はもう片方の手で佳奈の手を引いた。隙間から差し込む光がやけに眩しい。店の内側と外側。その境界線を、佳奈は自身の意思で踏み越えた。
そして次に目が覚めた時、世界から坂橋亮は消えていた。
第一話 自己満足を売る店
その日は身体の異変で目が覚めた。
胃の奥がチクチクと刺激され、冷たい痛みが器官に走る。ベッドシーツを握り締め、佳奈は激しく咳き込んだ。喉奥から何かがせぐりあげる。早朝の爽やかな空気に不相応な、得体の知れない違和感が佳奈の身体を蝕んでいた。
喉を押さえると、皮膚越しに何かがそこにあることが分かる。佳奈が大きく咳き込む度に、それはずるずると少しずつ喉を這い上がってきた。止まらない吐き気で両目に涙を滲ませながら、佳奈は力を振り絞って喉奥に指を突っ込んだ。親指と人さし指で、そこにある物体を無理やりに掻き出す。
「――ッ」
声にならない悲鳴と共に、唾液塗れのそれがベッドシーツへと転がり落ちた。大きさは五センチほど。トゲトゲしていて、青く透き通っている。イガグリをガラス細工で作ったら、きっとこんな見た目になるだろう。
この続きは、「別冊文藝春秋」3月号に掲載されています。
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