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「宗教とは何か」という大きな問いに向き合う長い旅

「宗教とは何か」という大きな問いに向き合う長い旅

文:三浦 天紗子 (ライター・ブックカウンセラー)

『神のふたつの貌』(貫井 徳郎)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #エンタメ・ミステリ

『神のふたつの貌』(貫井 徳郎)

 その二作の間に書かれたのが本書『神のふたつの貌』である。初版は二〇〇一年。二〇〇四年に文庫化されているが、しばらく入手困難だった。初版から二十年ぶりにこうして新装版文庫で読めることになったわけだが、神の存在が信じられなくなるような時代だからこそ、いっそう求められる作品だと思う。ただし、先述した『慟哭』『夜想』とはまるで違うアプローチで描かれている。それら二作が己が信じたい何かにすがる人間の弱さや愚かさをえぐっていったのに対し、本書ではプロテスタントというキリスト教派を媒介にして「宗教とは何か」という大きな問いに向き合う。凶事は起きるが、重きが置かれているのは犯罪の糾弾ではない。貫井は、神の言葉を欲しながらも疑い、格闘していく人間について、死や幸福の意味について、主人公たちの思考を借りて掘り下げていくのだ。貫井はクリスチャンではないし、教義などは本から得た知識に違いない。にもかかわらず、まるで神の言葉を血肉にした人間さながらの語り。これにつかまれない読者はいないだろう。

〈人間はもしかしたら、神に見捨てられた存在なのかもしれない。〉

 神の存在を認める一方で、そんな疑念を抱く十二歳の早乙女輝(ひかる)の苦悩から、物語の幕は開く。主な舞台は、大正末期に建てられたという田舎町の教会だ。早乙女は、祖父の代から聖職に就く一家のひとり息子である。森を背負うようにそびえる教会には町が丸ごと見下ろせる時計塔もあって、古いものの、雰囲気を漂わせた建物のようだ。

 早乙女の父は信者たちから厚い信頼を寄せられている立派な牧師だが、父にとっては神だけが至高の存在。母は、信仰より、心のつながりを求める人並みの願いが叶えられないことに苛立つ。それゆえ、夫婦仲は常に〈緊張の水位〉が意識される波乱を含んでいて、少年は父に甘えたり母に懐いたりという、およそ子どもらしい天真爛漫さとは無縁に育つ。

 そんな家族の関係性を変えてしまったのは、教会に逃げ込んできた美しく年若い朝倉暁生だった。ヤクザの情婦に手を出して追われているところを匿ってもらい、その縁で教会に居つくことになる。如才ないこの青年は、みるみるうちに母や町の人たちや信者たちの信頼を得てしまい、とりわけ母にとっては救いですらあった。ところが、朝倉が運転する軽ワゴンは事故を起こし、同乗していた母とともに事故死してしまうのだ。

 それでも早乙女は神の存在は疑うことはなかったが、ずっと神に問い続けていた。神は人間を愛しているのに、なぜ不幸はなくならないのか。不幸な人が救いを求めても、それに応えようとしないのか。望んでも得られない救いであれば、信仰そのものが無意味ではないのか。母の死後、身のうちに湧くたくさんの問いに、丁寧に答えてくれたのは、父よりも、教会の信者の久永琢郎(ひさながたくろう)だった。流れ者の朝倉をドライバーに雇っていた人物でもある。久永は説く。〈人間の人生は、神との約束を見つけだすためのもの〉で、どんな運命も〈天命〉なのだと――。実は早乙女には無痛症という生まれつきの障がいがあり、痛みというものを一度も味わったことがない。だから身体の痛みはもちろん、母の死に心を痛めることさえないのかと、彼は憂いを深くする。母の死も、自分の体質も、自ら望んで与えられたものなのか。そんな思いが膨れ上がったとき、早乙女は時計塔の上で自らある悲劇を作り出し、神の声を待つ。

文春文庫
神のふたつの貌
貫井徳郎

定価:935円(税込)発売日:2021年04月06日

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