- 2021.06.17
- 書評
作者が登場人物に託した「人間に対する信頼」
文:細谷 正充 (文藝評論家)
『あなたのためなら 藍千堂菓子噺』(田牧 大和)
出典 : #文春文庫
ジャンル :
#エンタメ・ミステリ
日本人はランキングが好きだ。テレビのバラエティ番組には、さまざまな形でランキングを扱ったものが少なからずある。また小説・映画・漫画などの年間ベストも多数実行されているが、これもランキングといっていいだろう。
このようなランキングは、江戸時代にもあった。見立て番付だ。相撲の番付を真似たランキング表である。森羅万象といっては大袈裟だが、いろいろなものが番付になり、江戸の庶民の話題になっていた。もちろん、その中には菓子司番付もある。この物語の舞台である「藍千堂」が実在していたら、きっと菓子司番付の大関(当時の最高位)を獲得したのではないか。それほど「藍千堂」の作る菓子は、美味しそうなのだ。
本書『あなたのためなら 藍千堂菓子噺』は、『甘いもんでもおひとつ』『晴れの日には』に続く、「藍千堂菓子噺」シリーズの第三弾だ。全五話が収録されている。「遣らずの雨」「袖笠雨」は、それぞれ「オール讀物」二〇一七年二月号と六月号に掲載。残りの三篇は、書き下ろしである。単行本は、二〇一九年一月に刊行された。なお各話のタイトルは、すべて“雨”に関係している。こういうちょっとしたところに、作者のセンスのよさを感じるのだ。
神田相生町の片隅に上菓子司の「藍千堂」がある。菓子を作っているのは、主の晴太郎と、彼の父親の代からの職人の茂市。晴太郎は上菓子とは別に、“子供や日々の暮らしにゆとりのない人々にも、「甘いもん」でひと時、幸せな気持ちになって欲しかった”と思い、四文菓子などを作ったりする。天才肌の職人で、善良な性格であるが、経営能力はない。そんな晴太郎を支えているのが、弟の幸次郎だ。算盤勘定から贔屓先回りまで、菓子作り以外の一切を取り仕切っている。性格はきついが、兄弟の仲は良好だ。
今までは三人で回していた「藍千堂」だが、前作で晴太郎は、武家の出で絵師をしていた佐菜と結婚。ある事情があり、佐菜の連れ子のさちを、自分の子供として育てている。詳しいことを知りたい人は、前作を読むといいだろう。五人になり店での暮らしが手狭になり、「藍千堂」の近くに新たな家を借りた。
という状況から、第一話「遣らずの雨」は始まる。新婚の晴太郎と佐菜は幸せいっぱい。彼らの描写は砂糖増量といいたくなるほど甘々である。さちもみんなから大切にされる今の暮らしに満足していた。だが、なかなか晴太郎のことを「お父っつあん」と呼ぶことができない。しかもさちの様子がおかしくなり、晴太郎に打ち明け話をした翌日、姿が見当たらなくなるのだった。
行方不明の騒動はささいなものであり、さちの悩みも晴太郎たちと話すことで解決する。しかし「藍千堂」の面々にとっては重大事件だ。特に、いきなり新米パパになった晴太郎は焦る。“生きた心地がしない、という気持ちを、晴太郎は生まれて初めて味わった”という一文に、彼の気持ちが込められている。だが、これが親心というものなのだろう。騒動を経て、親子の絆を強めていく姿が、温かな読みどころになっているのだ。