ダンソン 2018. 01. 19
『死神伝説 謎の絵師、ナユタは本当の死神かも知れん件』
現在、青山の三津島(みつしま)記念美術館で開催されている絵画展がある。『献体 ナユタ展 エロスのアポトーシスとタナトスのリジェネレーション』。サブタイトルがいささか難解ではあるが、絵画のジャンルとしては、写実画の部類である。筆者は美術界に詳しいわけではないので、その辺りの分類や作品の論評は専門家に任せるとして、この画家の周囲にはいささかきな臭い不穏な噂が飛び交っている。例えば『伴侶』という作品のモデルは、末期がん患者であったという。これはモデルの関係者を名乗る人物が、自身のブログに写真までアップしている。『カラス公園』は2015年に誘拐された立花智子ちゃんの肖像画で、誘拐当時、顔写真が公開されたので、記憶に残っている方も多いだろう。公開されたその写真の智子ちゃんは笑っていたが、絵の中の彼女は笑っていない。どこかで笑っていない顔写真を入手して描いたのだろうか。
『花の街』と題された3点がある。モデルは3人。残念ながら3人とも亡くなっている。今年、新年早々に起きた札幌のバス事故。大型トラックが観光バスと正面衝突。トラックの運転手の過重労働が問題になった。『花の街』のモデルは不幸にもこの事故で亡くなった3人である。しかし彼女たちはどこを探しても実名も顔写真も公開されていない。ナユタはどうやってこの3人を描いたのだろう。仮に何かしらのルートで彼女たちの写真を手に入れ、それを元に絵を描いたとする。ところが事故があったのは、1月2日。展覧会のオープン十日前である。事故後に絵を描いたのだとすると、彼は3枚の絵を僅か十日ほどで描いたことになる。そんなことが果たして可能なんだろうか。
ある写実画の画家に訊いてみた。彼はこう証言する。
「この3枚を一週間で描き上げるというのはあり得ない。一ヶ月や二ヶ月で描くのすら無理ですね。半年か一年か、もっとかかるかも知れません」
結構かかるものである。そんなにかかる工程だとしたら、事故後に描くというのは不可能だ。描かれたのは事故の前? しかし、そうなると今度はナユタが描いたモデルが3人揃ってバス事故で死んだことになる。しかも観光バスは42人乗りで、死者・重軽傷者だけで17人もいた。うち3人が不幸にも亡くなられたわけだ。
実はこのミステリーこそ、ナユタの死神伝説の核心なのである。
この現象を誰かが“ナユタの死神現象”とか“死神伝説”と言い出した。ナユタが描いた人は必ず死ぬ、と。その噂は瞬く間にSNSで拡散し、その波及効果は絶大で、炎上商法の誹(そし)りも浴びながらも、来場者数はうなぎ上り、展覧会は大盛況である。一体真相はどういうことなのか? 是非本人に取材してみたいところなのだが、実はこのナユタは自身の正体を公開していない、バンクシーのようなスタイルの作家である。展覧会の主催者や、親しい画商に問い合わせたが、本人と会うのも、取材するのも困難であるという返事であった。こうなってしまうと謎は深まるばかりである。
しかしながら、筆者はこの記事をそうしたいかがわしいミステリーに留めておきたくはない。ナユタという作家には、そうしたネットのゴシップとは別次元の凄みがある。どういう凄みなのかは、私よりもうまく書いている専門家たちの評論を読んで欲しい。
最後にこの作品を紹介しよう。
『献体』
展覧会のタイトルにもなっている4枚の作品である。ナユタは医大生の友人に頼んで解剖室に数ヶ月通い完成させたという。もはや狂気の沙汰だ。しかし注目しておきたいのはこの4点が展覧会のタイトルになっているということだ。
『献体』……
筆者にはこの展覧会に展示されている全ての作品のタイトルが『献体』でもいいとさえ思えた。
この作品のモデルたちは、どうやら一人としてもはやこの世にいないのである。この絵のモデルたちはまさに、ナユタという画家にその身を捧げているように思えてならないのである。ナユタという作家はゲイジュツに無知な筆者にも突き刺さるものがあった。そのオーラはまさに、コロナであり、その作品群はコロナを超えて吹き上がる火龍(かりゆう)のようなプロミネンス(紅炎/こうえん)のようである。
フリーライター・折茂羽膳
『花の街』のミステリーは確かに興味深い。ネット上には二〇一八年一月の展覧会以降、新作を発表していないナユタ自身が既に死んでいるという死亡説の考察まであった。しかしこういった噂を調べれば調べるほど私の中の何かが萎(な)えてゆく。本当にこの画家には価値があるのだろうか。編集長があれほど高く評価する意味が判らない。編集長がいいと言ってるのは根津ブランドだからじゃないのか? そんな邪推まで浮かんだ。根津さんがいいと踏んでるんだからいいに違いないと。
何か煮え切らない気分だった。私は室井香穂さんにこんなメッセージを送った。
[今度、ナユタ特集をやる事になりました。室井さんはあの絵をどう思います? どう評価します?]
返信はすぐに戻ってきた。
[いろいろ言われてる人ですけど、作品自体は私は凄いと思います。凄い領域にいる人だなあと]
そうなのか。室井さんがいいと言うならきっといいに違いない。一瞬でそう思ってしまう。私も編集長のことは言えない。いやいや、それは私の邪推であって、編集長は悪くない。
*
青山にある根津さんのギャラリー、“卵画廊”は二階建ての白い建物で、以前は輸入物の玩具専門店だったという。展示されている絵を眺めながら、根津さんのセンスに舌を巻く。ここを取材したいと言うと、おたくにはもう何度かされてるよ、と返された。室井香穂さんの牛の版画も一点展示されていた。その展示場の片隅にソファがあり、そこが打ち合わせの場所だった。
私は企画書を見てもらった。序文に、ナユタを取り上げる意義や、社会的反響を自分なりに分析して書いた。次に扉デザインのラフである。
見出しは『ナユタ、不可思議、無量大数級の天才』。
調べてみたところ、ナユタとは数の単位であった。数字の兆の上は京(けい)だが、そこから先はもうほとんど目にする機会もない単位が続く。垓(がい)、禾予(じょ)、穰(じょう)、溝(こう)、澗(かん)、正(せい)、載(さい)、極(ごく)、恒河沙(ごうがしゃ)、阿僧祇(あそうぎ)、那由他(なゆた)、不可思議(ふかしぎ)、と来て、最後は無量大数(むりょうたいすう)で終わる。那由他は無量大数、不可思議に次ぐ巨大数の単位である。きっと宇宙の比喩か何かのつもりだろう。
企画書を最後まで読み終えた根津さんは、表紙を上にして机の上に置いた。
「頭から説明しましょうか」と言う私を、
「いや」と根津さんは遮った。
「これは、また後でいいでしょう」
そう言うと、彼は不意に黙ってしまった。沈黙が息苦しい。黙るくらいならこの企画書の説明をさせて欲しい。そう思いながら、淹れて頂いた紅茶に手を付けてみたりするうちに、不意に加瀬くんのことを想い出した。
「あ、そう言えば、加瀬くん。繋いで頂いてありがとうございます」
「いえいえ。ま、ひょんな偶然です。再会の一助になれたのならよかった」
「でも、どうして加瀬くんと私が同じ高校だってわかったんですか?」
「え? ……ああ、あなたが取材に来るってことをお店のスタッフに話してましてね。『絵と詩と歌』の八千草という編集の人で、八千草って名前、珍しいでしょ、なんていう話をしてたわけです。そしたら彼が、急にその人自分の先輩かも知れないと言い出しまして。名刺を出してフルネームを確認したら、高校時代に同じ名前の先輩がいたと、彼が。ま、それだけです」
そう言いながら彼はナユタの図録を見ている。展覧会の時に発売されたもので、私も資料としていつも持ち歩いている。それと同じものだ。
根津さんがボソリと言った。
「まずはこれにしますか。このモデルさんのご主人の連絡先を教えましょう」
根津さんの人差し指は一枚の絵の上に置かれていた。『伴侶』という作品であった。
「あ、はい」
「後でメールの方に送っておきます」
「ありがとうございます」
「じゃあ、よろしくお願いします」
あまりにもあっさり打ち合わせが終わりそうになったので焦った。
「あの!」
「はい?」
「その方と連絡を取って、どうしたらいいですか?」
「どうしたら、とは?」
「いや、ですから、その方からお話を伺えばいいですかね」
「そうでしょ? 取材ですから」
「いや、何をどこからどこまで訊いたらいいのか」
「そんなの好きにしてくださいよ。別に制限はないですから」
「そうなんですか? だって匿名というか、正体明かしてない人ですよね。そのナユタさん。こういうことは訊かないでくれとか、ないんですか?」
「本人には会えません。縛りはそれだけです。安心して取材してください」
「じゃあ、ちょっと根津さんに質問していいですか?」
「なんですか?」
「そのナユタってどんな人ですか? 男ですか? 女ですか?」
「それを私に訊きます? せっかく取材するんだから、ご自分でお調べになったほうが楽しいじゃないですか? 楽しいっていうのは、あれか。……有意義。きっと有意義な取材になるんじゃないですか」
そう言われても、有意義かどうかも判らない。私はすっかり煙に巻かれた気分だった。
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岩井俊二
1963年生まれ、宮城県出身。『Love Letter』(95年)で劇場用長編映画監督デビュー。映画監督・小説家・音楽家など活動は多彩。代表作は映画『スワロウテイル』『リリイ・シュシュのすべて』、小説『ウォーレスの人魚』『番犬は庭を守る』『リップヴァンウィンクルの花嫁』『ラストレター』等。映画『New York, I Love You』『ヴァンパイア』『チィファの手紙』で活動を海外にも広げる。東日本大震災の復興支援ソング『花は咲く』では作詞を手がける。映画『花とアリス殺人事件』では初の長編アニメ作品に挑戦、国内外で高い評価を得る。2020年1月に映画『ラストレター』が公開、同7月には映画『8日で死んだ怪獣の12日の物語』が公開された。
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