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究極の観音像を彫るために仏道を捨て……生と死と性を味わえる花房文学の集大成

究極の観音像を彫るために仏道を捨て……生と死と性を味わえる花房文学の集大成

文:雨宮 由希夫 (書評家)

『色仏』(花房 観音)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #エンタメ・ミステリ

『色仏』(花房 観音)

 第二章「母仏」の主人公は、あの北近江の観音様を祀る村の娘だった茜(あかね)である。   

「うちが、あんたのお母ちゃんになるわ」子供の頃、自分を抱きしめぬくもりを与えてくれた、たった一人の女・茜との14年ぶりの再会。二人とも、こんな形で再会したくなどなかった。「……かんにんな」、よそもんの茜のまったりとした京ことばが響く。酒と博打好きの亭主のため身を売る女となり果てた茜を烏は声もなく見つめる。人形の依頼人は茜自身だったのである。

 第三章「恋仏」の主人公は梨久(りく)、元は江戸の武家の娘。桜吹雪の彫りのある女で、桜の名所・醍醐に住む。京都の桜は格別だが、永遠に散ることのない桜のように肌の桜の色が変化する。刺青師沙那丸(さなまる)の力量に圧倒される烏に梨久は語る、「物を作る人間の表情」が似ている、と。沙那丸は真砂の観音像も彫っている。

 第四章「鬼仏」。唯一「男」が主人公で、年号が明記される章である。嘉永6年(1853)6月3日のペリー来航の少し前、烏は烏を育てた月無寺住職の死を弔うために10年ぶりに帰郷する。幼馴染みの篠吉が住職になっていた。遊女との愛欲に耽り、女房を見殺しにした篠吉の過去が語られ、その業の深さが描かれる。帰省旅に同行した真砂は「誰か鬼みたいに強いもんが、江戸の幕府を倒してくれたらええねん」とも発言する。「鬼」は黒い船に乗った異国の鬼でもあり、「鬼のような男」と村人に蔑まれた篠吉でもあるのか。

 第五章「女仏」の依頼人は烏同様、あの十一面観音に魅せられた男・沙那丸。黒船来航から数ヶ月後の晩秋に発注があった。烏に観音様を彫れという。しかも、烏が美しいと思う女の裸で作ることという。

「女の匂いがする女、女とはなんだ」と悩む烏を沙那丸は下御霊(しもごりょう)神社での冬の花見に招く。下鴨神社からさほど遠くない場所と知って、読者はまたしても花房の舞台装置を思い起こすであろう、糺の森を舞台とした『偽りの森』の「賀茂の家」である。

 第六章「生仏」。「俺が観音像を作りたいと願うのは、女という生き物を形にしたいからだ」。烏が沙那丸にこう語る。片やかつて真砂の背中に観音を彫った男・沙那丸は真砂との性交を烏に見せる。が、かつて愛し合った二人の性交からは、男の片腕を切り取ったほどの愛情で欲望のまま男を求め、男と交わる喜びを知っている女が放つ香りや輝きが消えていた。

 後日、出来上がった作品を素晴らしいと真砂は褒めるが、人形を川に投げ込み……。かくして、権力者たちの欲望が蠢き、魑魅魍魎が跋扈する街・京都を舞台とする物語は終わりを告げる。

 あの観音様が時間を超越した不動の存在としてあり続けることを思えば、根の部分が揺らぐことのない真砂が言うように、徳川の将軍が江戸に幕府を作ったことなど、ここ最近の出来事に過ぎず、幕府が倒され、戦いがはじまることも不思議ではないはずだ。「姫仏」では、文久年間の和宮降嫁や足利三代木像梟首事件がアレンジされ、「生仏」では、東寺五重塔にかかる赤い雲に鳥羽伏見の戦いを予感させている。

 公家や天皇に近い存在らしい俊覚、沙那丸、猿吉という魑魅魍魎たちの輪郭がもっと具体性を帯びれば、幕末の京都が持つ深い闇がより鮮明に照らし出されたように思われる。例えば、京の街で一番大きな寺で、公家や御所との繋がりも強い大業寺の僧・俊覚の死は何故か。御所の傍の公家屋敷に住んでいる沙那丸の「使命」とは何か。

 それにしても、黒船が来航して徳川将軍の治世がゆらぐ時代の文脈と「歴史」という異空間が日常と同じ軸に存在し、京都特有の時間が流れる幕末の京の町の様子が活写されている。で、烏たちはどう生き抜くのか? 烏は観音像を彫るためのみに、明日をも見えぬまま京の町にとどまるつもりなのか。

 観音像を彫りたい烏が主人公と見せかけて、実は芯のある淫らさを内包している真砂(=花房本人)の物語ではないかとも思える。

「欲望の中でも、〈性〉という部分を私はどうしても見逃せない。」(『花びらめくり』)、「いろんな話を書いてはるけど、ひとりの男のことを、形を変えて、ずっと書いてはる。あんたの本は、いつも女がひとりの男に惚れてるやんか」(『京都 恋地獄』)とあるように、花房観音はデビュー以来、一貫して、理性や理屈を超えた人間の性と業を愛し、肯定し、その本質を見極めようとしている。

 本書は男と女の絡みつくような情念、羞恥、欲情、執念に、生と死と性を味わうことのできる花房観音文学の集大成である。

 蛇足ながら、私が一番好きな観音さんの言葉をひいて、エールとしたい。

「形のない必ず消えてしまう、これ以上もないほどの無常である恋愛というものを、文章という形で書き残せること──女としてこれ以上の幸福があるだろうか」(『京都 恋地獄』)。

文春文庫
色仏
花房観音

定価:803円(税込)発売日:2021年07月07日

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