- 2021.07.26
- 特集
「決断できない」「現場を知らない」「責任をとらない」――リーダーの不在を嘆く前に、歴史から何を学べるか
文:半藤 一利
『日本型リーダーはなぜ失敗するのか』(半藤 一利)
ジャンル :
#ノンフィクション
現代にも通じる「日本型リーダー」が生まれたプロセスを、日本陸海軍の組織、人事、教育の面から徹底的に解明。長年、昭和史研究に携わってきた半藤一利さんだからこそ書けたリーダー論の決定版。
前口上
いま、リーダーシップという言葉がやかましいくらいによく聞かれますが、このところの政治状況をみていればそれもうなずけます。国会はゴタゴタするだけで、決めるべきことが決まらない。ときには「決まる政治をやった」などと傲語(ごうご)する場合もありますが、そのときは民意をまったく無視している。この国にリーダーに足る政治家はいないのか、と心配してしまうのも無理からぬことと思います。
いきおい強いリーダーシップを、ということになるのでしょうが、いま広く言われているリーダーシップとは何か、強いとか弱いとか、どういう内容をもったリーダーを求めているのか、そのあたりはかなりあいまいです。いや、ことばだけが先走りして、「この人には強いリーダーシップがある」「じゃあ、すべて任せてしまおう」、そんな気分、掛け声になっているのではないでしょうか。
二〇〇六年九月に小泉純一郎首相率いる内閣が総辞職して、安倍晋三が総理大臣になるのですが、ここから毎年総理大臣が替わります。その間、政権交代して自民党から民主党政権になったにもかかわらず、毎年替わる。小泉さんは五年と五カ月務めましたから、それとほぼ同じだけの年月で、六人もの総理大臣をわたしたちは目にしたということです。長ければいいというものでもありませんが、後世の人がみたらこの時代は異様でしょう。もっとも、昭和十年代にもこんなことがありました。どんどん強いリーダーが要望された。そして結果的に、戦争に突入しました。
マスコミは、いかにも面白おかしく3・11以後の政治状況を歴史にたとえて表現するのですが、やたらに維新という言葉が持ち出されます。また、政治家は明治維新が大好きで、何かというと幕末、明治維新の人物にわが身をなぞらえ、「オレは高杉だ」とか、「彼は坂本龍馬だ」とか言いたがります。わたくしに言わせれば、そのたとえはだいぶピント外れ。なぜならいまは、幕末・維新の時代状況とは根本的な違いがあるからです。
日本の歴史には、二つの大きな転換期がありました。一つは戦国時代、もう一つは明治維新です。それぞれ特徴をみていくと、現在を幕末・維新期になぞらえることの無理がよくわかると思います。戦国時代というのは、応仁の乱からはじまるといわれていますが、この戦国の争乱期には、百年以上続いていた足利将軍による室町幕府に一応の権威はあったのです。ところが、その権力統治の体系が崩れたことで、その上に乗っていたものがすべて崩れ去って、治安・秩序が完全に失われました。いったん秩序体系が壊れてしまったことで、従うか従わせるかという、ほんとうの力くらべでないと決着がつかないことになった。これが戦国時代という転換期の特徴です。
それまでは血筋、血統による身分で秩序がピシッと決められていたのだけど、そういう身分の固定化というのが強くなくなった、あるいは崩れ去ったというのもまた、この時代にみられる特徴です。
そういう状況を背景にして、独自の世界観をもってリーダーシップを発揮したのが、戦国の武将たちでした。織田信長にしろ、武田信玄にしろ、彼らはこのごちゃごちゃの世界の中で天下統一を目指して立ちあがり、自分の才覚を発揮して家臣たちを引っ張り、版図を広げていったのです。
それにくらべて幕末の徳川幕府は、権力機構がしっかり根づいていました。決してグズグズ崩れてはいません。徳川幕府は最後の最後のところまで、権威も権力もあった。各藩だってそれぞれに秩序が保てていた。戦国時代は力と野心があれば、とにかくがむしゃらにやりさえすればよかった。けれど、完成してしまっている幕藩体制下では、改革を唱えることはたいへん大きな軋轢を生む。ついには自分の殿さまを倒さないと改革はできなくなってしまった。
改革派は、守旧派と揉み合っているうちに、幕藩体制のうしろ側に、天皇というたいへんな権威が存在していることを発見します。権力はないけれども、いやむしろ権力を振り回さなかったからよけいに、純粋に大いなる権威を保持できていた天皇という存在に気づいた。当時は「御門(みかど)」とか、「すめらみこと」とか呼んでいたわけですが、その天皇を担いで一か八かの命がけの仕事をすれば、権力をほしいままにしている幕藩体制をひっくり返すことができると、彼らは考えた。それに、外国の武力というかつて想像したこともない力が外から加わってきていた。
西郷隆盛、大久保利通、高杉晋作ら、明治維新でリーダーシップを発揮した人も、戦国武将たちもひとしく命がけではあったでしょう。けれど、戦国武将が何もないところを突っ走った感じであるのにくらべて、明治維新はぶ厚いコンクリートの壁にぶつかるようにして、旧体制をぶち壊そうとしたのです。つまり、外圧を前にしても国家秩序は決して崩壊していなかった。それで変革しようというわけです。
では現在はどうか。状況は、ずばり戦国時代だと思います。日本はいま、まさにグズグズの体制になっている。そして、皇室は政治的権威をもたないことが憲法ではっきり決まっていますから、いまの政治体制を支える権威はどこにもありません。まさに現代は、下剋上の時代。天下をとろうと思えば、誰もがとれるという状況になっているのです。しかもネットでつながってそれが社会を変えるきっかけとなっている、そんな軽い時代でもある。維新のときと、状況はずいぶん違います。第一に、天誅をうけなくてすむ。
ですから、いまリーダーシップがやたらに論ぜられている、要求されているのです。この先の見えない、浮遊している国家を何とかキチッとしたものにしてほしい。そうした人材よ出でよ、いまこそ、というわけです。でも、そんなに簡単に織田信長や徳川家康が出てくるはずはありません。いまの日本にこれというリーダーがいないのは、日本人そのものが劣化しているからだと思います。国民のレベルにふさわしいリーダーしか持てない、というのが歴史の原則であるからです。
といって、リーダーなんかいらないとあきらめてしまうわけにはいきません。そこで、歴史に学んで、とくに日本の近代史そして太平洋戦争の教訓に学んで、そもそも日本にリーダーシップなるものがあったかを考えてみよう、というわけなんですが、はたしてそれができますかどうか。いくらか躊躇を覚えながら、はじめてみることにします。
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