小泉純一郎から安室奈美恵まで――平成育ちの歴史学者が描く、団塊からZ世代まで必読の日本の全貌
- 2021.08.04
- ためし読み
「全体像」を指し示すことが、かつては有識者の使命とされていました。とくに冷戦体制に依拠する保守と革新の構図が崩壊してはじまった平成の前半には、右から左まで、高齢者から若者まで、都心でも地方でも、男性も女性も……と「可能なかぎり広い範囲に」届く形で社会の見取り図を提供するのが、価値ある行いとされる風潮がありました。
平成の後半に学者と論壇人とを体験し、末期にそれらを廃業してみて思うのは、いまやまったく逆のエートス(気風)が、活字文化に定着したということです。
せっかく大学勤めを辞めたので、当時ならまず読まなかった自己啓発やビジネスの書籍を手に取ってみると、あべこべで面白い。すなわち、想定する読者は30代前半までの未婚で都会に暮らす正社員の女性、のように「できるだけターゲットを絞って」発信するのが、ファッションのみならず言論の市場でも、マーケティングやブランド化という「意識の高い」戦略とされて久しくなっています。
無限の反復のなかで
そうした平成のあいだに最も信頼を失ったブランドが「学者」と「知識人」であることは、いまや誰もが知っているでしょう。しかしそれを、彼らがなにもしなかったせいだとするのは、あまりに酷な見方です。
むしろ平成の前半には改革の潮流が、象牙の塔(大学)に籠りがちだった研究者を強く現実にコミットさせ、後半にはSNSなどのニューメディアを通じて、多くの言論人が過剰なほど情報を発信するようになりました。所属する組織の仕事をこなすのはもちろん、個人の資格で動画チャンネルやオンラインサロンを開設し、そちらでも講義やセミナーを担当する「働き者」さえ、いまや珍しくありません。
にもかかわらずどうして、彼らはなにひとつ達成できず、反知性主義のもとで嘲笑される存在へと転落していったのか。実は先ほども述べた「同時代史を描けない」という事態こそが、まさにその原因であり結果でもあります。
たとえば、ある学者が“目の前の時代”の診断として記した、以下の文章を読んでみてください。著者の名前と発表された年の組みあわせとして、「正しいものは」ともし聞かれたら、どの選択肢を選びますか。
巨大組織による情報と資源の集積は、法の下における平等という前提をどんどん形骸化します。連続的に創出される変化は、個人の予測しえぬ将来の危険をいや増していきます。人々は平等の実質化と危険の回避を求めて集権的機構の傘下にわれがちに避難していきます。福祉社会においてわれわれが現認しているのはこうした逃走者の群れなのではないでしょうか。
しかし、この場合、逃げていく彼らを弱い人間と罵るのはまったく不適当です。これこそが自由の帰結だからです。
A 浅田 彰(現代思想) 1989年
B 宮台真司(社会学) 1999年
C 東 浩紀(哲学) 2009年
D 落合陽一(メディアアート)2019年
おそらくどれが答えだと言われても、これら各時代を代表する言論人の議論に触れたことのある読者は、「書いていてもおかしくないな」と感じるでしょう。
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