小泉純一郎から安室奈美恵まで――平成育ちの歴史学者が描く、団塊からZ世代まで必読の日本の全貌
- 2021.08.04
- ためし読み
世界の構造すべてを深層まで見通す試みは、神に委ねた方がよく、人間はそれを目指すとかえって不幸になる動物なのかもしれない。1926年にこう書いたのは、当時無名の怪奇小説家だったH・P・ラヴクラフト。この不気味な宣言に始まる短編「クトゥルフの呼び声」は、文通仲間や掲載誌のファンコミュニティによって関連作品が書き継がれ、無数のバリエーションを持つ偽史的な叙述の集積――人類“以前”に地球を支配した邪神たちを描く、いわゆるクトゥルフ神話群を今日に遺しました。
インターネットの出現よりもはるかに先んじた、フェイクニュースのウィキペディアであり、人力で運営されるビッグデータですね。そして、1世紀前にはオカルト小説の前振りにすぎなかった「全体像の構築は、もう人間ならざるものの手に委ねよう」という感性が、デジタル社会を生き延びる手がかりとして参照されるところまで、私たちは来てしまった。
一見すると、とてもこわい、それ自体がホラーのような話です。これまた世界各国に広がる終末思想や陰謀論の流行も、おそらくそうした心性が背景にあるのでしょう。
ですが、それは悲報ではなく、むしろ朗報でもあるのではないでしょうか。
私たちが抱える漠たる不安や恐怖は、けっしてここ数年に始まったものではなく、はるかに遠い過去にも起源を持っていた。だとすれば、そうした歴史をかつて生きたすべての人たちと、私たちはこれから“ともに悩む”ことができるはずです。
なしたところを知るために
たとえば私はいま、「なすところを知らざればなり」という言葉を思い出します。もとは新約聖書(ルカ伝。西暦100年前後の成立か)の一節で、十字架にかけられたイエスが「彼らは自らの行いを理解していないのだから」と、父なる神に寛容な裁きを求めて発したものです。ある意味でいま、たしかに私たちはGoogleに検索語を入れ、Amazonで商品を探すことで日々、やがて「人類“以降”の邪神」に至るかもしれぬデータの屑山を、自覚なきままに積みあげています。
いっぽう、人間がキリスト教の神からの自立を模索した西洋近代のもとで、この警句を正反対の趣旨に転用したのは、『資本論』(第一巻、1867年)のマルクスでした。資本主義のもとで「等価」とされたモノどうしを交換するとき、実際には何が起きているのか――むしろ交換の成立を通じて初めて、新たな価値と支配のシステムを作り出してしまっていることに、人びとは気づいていない。
逆にいえば、そうした構図の全体を描いて「自分たちは何をやっているのか」に気づかせることが、学者や言論の役割とされた時代が近代でした。私たちがいま立っているのは、そうした近代を続けるか否かの、大きな岐路にほかなりません。
私たち人間は、これからも世界の主人公でいたいだろうか。それとも「なすところ」の解釈は機械じかけの新たな神にお任せして、近代をやめていったほうがよいのだろうか。
――決めるのは、過去からの声を聴いてから。ここに至るまでに、私たちが「なしたところ」を知ってからでも、遅くはない。
「なすこと」の意味がなんであるのか、それは青天下の濃霧に溶けて日々に見えにくくなり、見る必要はないとする思潮も蔓延して、ますます霧は濃くなってゆくように思えます。しかし、同じ道をかつて辿った人びとの記憶がともにあるなら、そのなかを歩くことは決して、孤独な旅路にはならないはず。
さぁ、旅を始めましょう。私たちと同じ問いを、悩みを、平成ないしポスト冷戦の30年間に考え抜いた人びとの貴重な痕跡に、耳をすましながら。
(「序 蒼々たる霧のなかで」より)
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