のっけから仰天したんは、大島真寿美さんは名古屋の人やのに、なんでこんなディープな大阪弁を全編にわたって書き通せたんやろか、ということでした。
そのうえ、近松ゆうたら門左衛門と来るところを近松半二。近松半二ゆう人は、そら、文楽(=人形浄瑠璃)に関わる人間に知らんもんはおりませんが、かの「日本のシェークスピア」こと近松門左衛門に比べたら圧倒的に半二は無名やないですか。僕らが知る情報量ですら、ほんまに少ない。作品や解説書の中、それも手垢のにじんだ古本の読みにくい字体でしか拝めん人です。その人が三百年前の大坂・道頓堀に急に出てきて、『あっちかてこんくらい』、『際々(きわきわ)んとこ』、『ほなさいなら』、『んな阿呆な』、『このごっつい道頓堀いう渦ん中から』とか仲間らと言い合いながらふつうに喋っている。
当時の道頓堀ゆうたら、ブロードウェーみたいな芝居小屋の立ち並ぶ街ですけど、その景色がパノラマみたいに目の前に広がってきました。有名な歌舞伎作者の並木正三や、人形遣いの吉田文三郎も出てくる。
こんな会話をようでっち上げるなあ、と思いながらも、ほんまオモロくて、すごい説得力があって、だんだん僕も半二と友達みたいな気持ちにさせられていきました。そんな風景をいきなり見せられたことに、まずびっくりやったんです。
さらに、大島さんはもともとの文楽ファンと違うて、歌舞伎が好きやった、これを書くために文楽のことを猛勉強した、と聞いて、あんまり文楽も知らんのに、ようここまで突っ込んで書けたもんやとあらためて驚きました。
そして何よりびっくりの親玉は、最終章「三千世界」において「妹背山婦女庭訓」の重要な登場人物、お三輪がこんなふうに語り始めたことです。
『婦女庭訓(おんなていきん)やら、躾方(しつけかた)やらにかて、わざわざ書いてありますやんか。おなごは悋気(りんき)をおこしたらあかん』
『おなごはだまって従うだけ。尽くすだけ。あー、阿呆らし。ほんま、阿呆らしおすな』
『お三輪は……後先なんて、なんも考えてへん。ただ好きな男のことしか思うてへん。恋や。お三輪にあるのは恋心だけや』
などと、お三輪のモノローグが次々と展開されていくんです。
さてところで、文楽の「妹背山婦女庭訓」の道行はこないなってます。
イケメン男子の求馬(もとめ)をまん中に挟んで、町娘のお三輪と橘姫の二人の女の子が睨み合ってる。
なんと、鹿の子の振袖の町娘と薄衣をまとったお姫様の対決でっせ。
「主(ぬし)ある人(彼女がいる人)をば大胆な、断りなしに惚(ほ)れるとは、どんな本にもありゃせまい」と橘姫に立ち向かう町娘のお三輪。
「たらちねの(親の)許せし仲でもないからは。恋はし勝ちよ、我が殿御」と求馬に迫る橘姫。
「いいや私が」と言い返すお三輪。
「いやわしが」と突っぱねる橘姫。
こんな今様芝居が江戸時代に書かれていたんでっせ。この活発で生々しい打々発止(ちょうちょうはっし)の情景! 何よりお三輪という純朴でいじらしい田舎娘の恋の相手、求馬の正体は藤原鎌足の次男の〈淡海〉。恋敵の正体は鎌足に敵対する蘇我入鹿の妹〈橘姫〉。なんちゅう突飛で度を超えたスケールの大きさ!
そして、お三輪は男世界の秩序にのみ込まれついには死んでいくのだ。愛する男のために喜んで死んでいく。本当の愛。愛する人のためなら命をも捧げる。近松半二はこの究極の愛を白昼堂々と観客にぶつけるんです。
求馬を追いかけて屋敷に入り込んだお三輪は、いきなり武将に刀で切られてしまいます。求馬に与(くみ)するその武将は、苦しみもだえるお三輪の耳元でこう囁く。
「疑着(ぎぢゃく)(悋気激昂)の相ある汝(なんじ)なれば不憫ながらも手にかけし」「汝の(お三輪の)血潮が蘇我入鹿を滅ぼす役に立つのだ」と言い聞かせるんですわ。
瀕死のお三輪は息も絶え絶えに叫びます。
死に際のお三輪の義太夫節がまた、たまりまへん。
「あなた(求馬)のお為になることなら、死んでも嬉しい、忝い」と観念しつつも、「とはいうもののいま一度、どうぞお顔が拝みたい。たとえこの世は縁薄くとも、未来は添うて給われ」と、最後にまいちど求馬さんに会いたかった、未来は一緒になりましょ、と言うて息を引き取る。
ここを舞台で語る時、僕はいつもお三輪と身も心も同化してます。
それから、〈来世志向〉。これだけは古典を鑑賞するうえで避けて通れまへん。現代では考えられませんが、江戸時代は来世での縁(えにし)、結びつきこそ、真のしあわせや、と本気で信じられておりましたんや。お三輪は喜んで天へ飛翔したんです。マジでっせ。
この小説のクライマックスは、なんちゅうても「妹背山」が作りあげられていく創作の現場でしょうな。半二は、獏(松田才二)に向かって『お三輪はな、わしが拵えたんやない。お三輪はな、あらわれたんや』と突拍子もないことを言います。
最初に読んだとき、僕は「三千世界」で展開されるモノローグの本当の意味が分かってなかったんやと思います。今回再読して、お三輪という存在は、『渦』という小説や半二の浄瑠璃も超え、時空をも超えた〈魂〉のように思えてきました。
実際、お三輪を超えた存在がお三輪を語らせているんや、と。
半二もこう述懐してます。
『ひょっとして浄瑠璃を書くとは……この世もあの世も渾然となった渦のなかで、この人の世の凄まじさを詞章にしていく』と。
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