大島さんはこのお三輪のイメージを、半二の幼なじみで兄の許嫁、半二の母親によって婚約を破棄された町娘のお末に投影させています。そしてお末にこんなことを言わせます。
『いっしょになるにはもう駆け落ちしかあらへん。心中しかあらへん。』
『あの年頃の娘っていうのはな、たいがい、そういうもんなんやで。思い込んだら命懸けや。』
『うちはどや、いきなりあらわれた見ず知らずのおなごに、大事な人、取られてしもたんやで。そんな阿呆な話があるかいな。気ぃ狂いそうやったわ。』
同い年のこのお末の詞は半二にとってリアルに、間近に体験したおぼこ娘の本心、心の叫びやったんですな。
そのお末の死を半二が聞いた時、ふとお三輪が時空を超えて『渦』の最終章にあらわれ思いの限りを語りつくす。ホンマ感動的な展開でっせ!
文楽は生身の役者ではなく「木偶(でく)」が演じます。いわばただの木片を観て、お客さんは喜怒哀楽をそこに感じるわけです。文楽には「三位一体」という言葉があり、太夫・三味線・人形の三業がひとつになってストーリーに感情を込めていくわけですけれど、その単なる木偶に向けて、悲しい、オモロイ、悔しい、カッコええと思うのはお客さん自身の感情で、それも合わせての「四位一体」となるわけや、と僕は思てます。みんなが無表情なモノ(人形)に自分を投影する。自分の想像力によって喚起される〈私〉の物語に出会う。文楽の舞台では、毎日毎日この四位一体総がかりのエネルギーで物語が生まれ、消えていく。これが三百年以上続いてる。宇宙空間を満たしても足りない、大きな〈物語の渦〉が生まれてもおかしくない。そしてこの〈物語の渦〉の彼方からお三輪が半二の元に「あらわれた」ことに大島さんは気づいたんやと僕は思う。
それにしても、この半二の作品を現代のお客さんの前で語ることの幸せをしみじみと感じます。お客さんも江戸時代の人と同じシチュエーションのセリフで聞いて、観て、感動してる。これ、ある意味奇跡ちゃいまっか。
僕の祖父も文楽の太夫やったから、昔から文楽とは身近でした。しかし入門前は正直言って、文楽ちゅうのは辛気くさいし流行(はや)らんし、将来性のないもんや、とずっと思てました。ところが、いざこの世界に入ってあらためて文楽を客席から見直したら、たまげましたわ。汗水たらして語っている太夫のコトバは訳わからんし、三味線のベンベン鳴る音は異様やし、人形の横にはなんと、人形遣いの素顔もあってそれが邪魔やし、ぞろぞろ黒衣もいて大の男が大勢でドタバタしとって……。そやけど待て待て、これはこれでえらいシュールちゃうか、と。大道具やら背景やらも目がくらむほどきれいやんか! オモロイ! と思わず身震いしたもんです。
その初心を思い出すようなシュールな世界が、この『渦』には溢れています。江戸時代の実在の登場人物が目の前で、泣くわ笑うわ喋るわ喋るわ、喜怒哀楽をまき散らすんです。この小説を通して、そんなワンダーランドを味わうことができる私たちはホンマ幸せもんでんなあ。
これまで興味のなかった人にも、文楽の魅力を知らしめてくれた大島さんに感謝です。
ついでながら、『渦』にはまった皆様方には、この素晴らしき文楽の世界も存分に味わっていただけますよう、よろしゅうおたのもうします。