この「あこがれ」の感覚が、さまざまな角度から描かれているのが、3章だ。幼いころの耕一郎と絵美子の、日常の冒険が並べられている。
屋根の上から、隣の家の風呂場をのぞいたこと。絵美子は、特に十七、八歳の「となりのお姉さんのときがいちばん、どきどきさせられた」。「もっと年上の、たとえば女性の母親だったら、行水をのぞくおもしろさはほとんど感じられなくなっていただろう」。
のぞきが発覚したせいか窓が閉まったきりになってからは、「あのこわさをもう一度でいいから味わいたい、と祈るように願う。体がしびれるような、あのこわさを取り戻したい」。それで、二人でよその家の便所をのぞきに行ったりもする。
さらに絵美子は、友達のうちのひな壇から小さなタンスや食膳のセットのお椀を盗んで、寺の境内に埋める。8章でも絵美子は、十歳のころ万引きをした記憶について、「ほかでは得られない興奮が欲しかった」と思う。そして、「子どものころ、耕一郎といつもいっしょに過ごしていたから、あの種の興奮のとりこになってしまったのか。だから、おとなになってもほかの喜びには無関心になり、生きることに投げやりになってしまった」と考え、自分のその解釈を慌てて否定する。
「いや、ちがう。(略)わたしはこうちゃんにすべてを押しつけるつもりなのだろうか。こんなことでは、わたしこそがこうちゃんを『フテキカクシャ』と指弾して、(略)『アンラクシ』に追い込もうとする連中のひとりになってしまうではないか」。
小説後半のこの否定し直す言葉は、小説前半に現れる反省の言葉と響き合っている。
「十五歳の兄は本当だったら、十二歳の妹にとって、どんな存在なんだろう」と絵美子は考え始め、知的障害のない兄の姿を想像し、その想像を打ち消す。
「だけど、本当だったら、などという想定そのものがまちがっている。(略)今の状態以外に、どうして『本当』があると思ってしまうのだろう、と自分を責めた。絵美子の生きている世界には、今の耕一郎ひとりしか存在しないというのに」。
つまり、「あこがれ」の感情の内部には、現在を否定し葬り去ろうとする強烈な「どきどき」や「興奮」を求める衝動が秘められているのだ。
現在を葬りかねないときめくような破壊衝動は、力のある者たちに容易に利用される。「標準」や「普通」といった規範を突きつけて、そうでないおまえはおかしい、と迫ってくる。自信を奪い、劣等意識を植え付け、自分を否定するよう、破壊衝動に訴えかける。
「こうちゃんがいたから、変な眼で見られることが多かった」絵美子は、世の標準に沿わずに行動する耕一郎に、衝動の原因を求めてしまうことがあるが、それは耕一郎を普通ではないと見なす世間の目線に呑まれてのことで、だから「フテキカクシャ」と指弾する人たちと同じ立場に回ったことになるのだ。
このような「あこがれ」を、十五歳の絵美子はきっぱりと退けるに至る。とある母親が新聞のインタビューで、障害のある子に恵まれたからこそ教えられることがあって感謝している、と述べるのを見て、絵美子は「そんなのおかしい」と思う。
「教えられることがなかったら、だめなんですか(略)こうちゃんのいない母は、どこにもいない。母のいないこうちゃんも、どこにもいない。こうちゃんがいないわたしも、どこにもいない。ほかに意味なんかありません」。
「あこがれ」の力で現在を否定するのではなく、ありのままの現在をかけがえのないものとして受け入れ、肯定する。人の存在の価値や幸福を、何かのためになっているかどうかで測ることを、根本から否定する。
しかし、厄介なのは、「あこがれ」には、単に現在を否定するだけでなく、現状を壊してその外のより広い世界へ出ていこうとする力も備わっていることだ。それがたとえ、力のある者からの「美」を通じた劣等感の洗脳であっても、「あこがれ」には現状のその先へ人間を進ませる推進力がある。
最後の9章で、いまわのきわで譫妄状態にある父方のおじ、永一郎は、耕一郎の母であるカズミが恐ろしい告白に及ぶのを幻視する。耕一郎を妊娠したころ、夫と同時に夫の友人にもあこがれていて、「このあこがれがなかったら、耕一郎の障害はなかったのかもしれないのです。わたしにはそう感じられます。母親のわたしがなにかへのあこがれで、心がうつろになっている。(略)あこがれという感情にむしばまれただけなのであり、ほかに危ないことをしたわけではありません」。
もちろん、夫以外の人にあこがれたから身ごもっていた子どもに障害ができた、という因果は成り立つはずがない。ここでカズミが言っているのは、心の内でだけでも、「危険な精神作用」であるあこがれに身を任せ、妊娠を含めて現状を壊してその外に飛び出そうとした瞬間があったことを、直視しようという覚悟ではないか。
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